己惚れるつもりはない。ただの友達として『好き』だと思われているのはわかってる。
それでも、当たって砕けるくらいは、してもいいんじゃないか―――
狭い玄関に大きな体を縮めて屈みこんでいる男が、器用そうな手つきで靴の紐を結んでいる。その背中に痛いほど視線を当てながら、青年は拳をかたく握り締めた。
紐を結び終えた男が暇を告げるために立ち上がって振り向く瞬間を狙い、その襟首をぐいと引き寄せる。視界一杯に広がったのは、少し見開かれた鳶色のきれいな瞳。
勢いのままに行動したものの、ほんの僅か掠める程度のところで、ありったけかき集めた勇気は尽きた。
男の驚いた表情がまだ引かぬうちに、青年は相手を解放していた。
「……高耶さん?」
俯いた青年のつむじに向かって、不思議そうな呟きが落とされる。
戯れのキスひとつに真っ赤になるような純情青年が、自らキスを仕掛けてきたのだ。およそそんな雰囲気とはかけ離れた去り際の玄関で。
男の当惑は当然のことだろう。たとえそれが青年の期待とは全く違う反応であったにしても。
「―――またな」
青年は顔を上げながら素早く落胆の色を隠して、呟いた。いつもどおりのぶっきらぼうな台詞に男が破顔する。
「なるほど、別れの挨拶ですか。じゃあ私もね」
え、と思う間もなく、超一流ホストの優美な指先が青年の顎をとらえ、物慣れた様子で顔が寄せられた。青年と同じ、触れるだけのくちづけを落とすと、男はいつものように柔らかく微笑み、
「これが気に入ったなら、今度からもしますか?」
と問うてくる。ありったけの勇気を振り絞ったさっきのキスを欧米スタイルの『挨拶』として捉えた男の台詞に、青年は再び俯いてしまった。
この男にとっては、それだけのものなのだ。何の気も無いただの友達の挨拶でしかない。性的な意味合いなど、これっぽっちも感じてはいないのだろう。
「……オレがそうしたいっていったら、する気なのか?」
少し間を置いて呟かれた台詞に、男は目を細めて頷く。相手が俯いているのはいつもと同じ照れからだと思い込み、可愛いものを見るようにその瞳が甘くなる。
「ええ。勿論時と場所はわきまえますが」
当然のように肯定され、青年の眉がぴくりと動いた。
「男同士なのにか?」
「男も女も関係ないでしょう」
何のためらいもなく、むしろ不思議そうに答えた男に、青年の理性の箍はとうとう弾け飛んだ。
「関係あるだろ!男同士でキスなんかしねえよ。ここは日本なんだ。なんで男同士で挨拶にキスなんかするんだよ!」
急に爆発した年下の友人に、男は驚いた。こんなにも激しい感情をこれまでに見たことはなかった。一体何が彼をこれほど刺激したのか。
「高耶さん、怒ったの?あなたがいやなら、さっきのようなことはしません。すみませんでしたね」
そんな男の見当違いの謝罪は青年の感情に油を注いだ。
「なんで直江が謝るんだよ!おかしいこと言ってんのはオレだろ!」
「高耶さん……」
「オレが勝手に……っ」
自分でも収拾がつかなくなっているらしい青年の言動に、男は対処の方法を思いつくことが出来ず、きつく両手の拳を握り締めて震えている歳若い青年に、気づけば腕を伸ばしていた。
「な、」
男は広い胸に青年の体を閉じ込め、その背中を両腕で抱きしめた。
「直江っ……」
「いいから」
つい今までの恐慌状態はどこかへ飛んでゆき、いつものように真っ赤になって離れようとする青年の体を、男は離そうとしなかった。青年の精神はもう正常に戻っているのに、離し難くて、抱きしめたまま微動だにできない。
彼がまだ社会に出てもいない若い男の子であると、頭ではわかっていたのに、こうして腕の中にすっぽり納まってしまう体の細さに驚いている。
自分とは十一も歳の離れた相手だとわかっていたつもりが、ついそれを忘れて乱暴に扱ってしまっていた。水物の商売にどっぷりと浸かり、決して普通ではないご婦人方との駆け引きに慣れきったまま、その感覚でこの純真無垢な彼に相対していたのではないか。気づかないうちに何か相手を傷つける言動を取っていたのではないだろうか。
「直江……」
その証拠に、彼は腕の中でどぎまぎと落ち着かず堅くなっている。青い竹のような初々しさが、ずきりと胸を痛ませた。
身を堅くした青年と、彼を抱きすくめた男とは、大の男二人には狭すぎる小さな玄関で、一言もなく立ち尽くした。
「……すみません。情緒不安定なのは私の方かもしれない」
やがて青年の体をゆっくりと解放した男は、初めて見せる陰のある微笑みを浮かべ、玄関の扉を開いた。
「直江……」
青年は男の表情に掛ける言葉を失い、その場に立ち尽くす。
「それでは、また。お騒がせしてすみませんでした」
青年は、男が寂しげに微笑んで出てゆくのを、扉が静かに閉ざされるのを、一言も発せずに見つめていた。
がちゃり、と扉の閉まる音がしたとき、彼は弾かれたように飛び出し、ノブを掴んだ。―――だが、とうとうそれを回すことはできず、彼はそのまま床へへたりこんだ。
「直江……ごめん」
未だ年若く、百戦錬磨の色男に自分の気持ちを分かってもらうことすらできずに苦しむ青年は、冷たいドアに身を凭せかけて天井を仰ぎ、呟く。
ごめん、直江。
勝手にキスを仕掛けて、激昂して、抱きしめて慰めてもらって、それなのに黙って帰して。
あんな寂しそうな顔は初めて見た。
ごめん、直江。
おまえは何も知らないのに。勝手に期待して、責めて。
ごめん……
「でも、直江の……ばかやろう」
俯いた唇から、乾いた言葉が転がり落ちた。
05/09/12
|