さて、ようやく青年が目を開けたとき、彼を腕に抱いている男は、交代するように眠っていた。腕の中で身じろぎ、その寝顔をぼんやりと見上げて、青年は目を見開く。
なんでまた直江と一緒に寝てるんだ。
ここは紛れもなく自分のアパートで、それは薄そうな壁を見ても慣れた布団の感触からも明らかだ。それなのに、そこにただ一点、まったく似つかわしくない超一流の男が、いる。
夕べの経緯を思い出し、ほぼ同時に状況を理解した青年は、自分が大胆にも男の背に腕を回して抱きついていることに気がつき、かあっと赤くなった。
こんな風に密着しているから、あんな夢を見たのか。
全身で直江の香りを吸い込み、その体温を感じているから。
青年は目を閉じ、どうしようもなく火照る顔を持て余した。背中に回した腕が、抱きついている体の逞しさを伝えてくる。自分の背を抱いている男の腕の重みが、たとえようもないほど嬉しい。
「ごめん、直江。今だけ……こうさせてくれ」
小さな小さな呟きが、口の中でくぐもった。
抱きつく腕を強くして、しばらくの間、精一杯相手の体温を感じると、青年はえいやっと気合いを入れて身を起こした。できるだけそっと腕の中から抜け出したつもりだったが、男の眠りはそれほど深くはなかったようである。少し眠そうな仕草ではあったが、彼は目を開けた。
「ああ……高耶さん。おはようございます」
ゆっくり開いた瞼の下から、恋人を見るような甘い瞳が現れる。身を起こして向かい合った相手を見て、ふわりと笑顔になった。たとえるならば、親鳥を見つけた雛のように、安心したような微笑みだ。
それをまともに見て取った青年は、慌てて顔を横に向けた。目を見続けていたら何を口走るかわからなかったからである。
「……おはよ。ごめんな、オレ、おまえの邪魔したよな」
おそらくは無意識に抱きついて引き留めたことを思い、青年はそう謝った。ただし、やはりそっぽを向いたままである。見ようによっては到底謝罪する姿勢ではなかったが、青年の横顔が耳まで赤いことを見て取った男は、腹をたてるどころか愛しさを募らせた。
「いえ、とんでもない。こちらこそ、昨夜は本当にお世話をおかけしました」
すっと伸びた手が、青年の髪に触れる。驚いてがばっと振り返った青年に、男はにこりと笑いかけた。
「驚かせてしまいましたか。……ここに、寝癖が」
男の指が摘まんでいる一房は、確かにぴょこんと跳ねている。青年には見えない位置だが。彼にとってはそれより何より、至近距離といっていいほどに近づいた男の顔の方が重要だった。
「ん、どうしました?」
固まってしまった青年に、男が首を傾げる。その鳶色の瞳は深く澄んで、青年の戸惑い顔を映し出していた。
相手の瞳に自分だけが映っている。それがこんなにも幸せだなんて。
青年は、男の瞳に映る自分の顔が泣きそうにゆがむのを見た。そして、驚く男の顔。
「どうしたんですか?」
「何でもない。ゴミか何か入ったみたいだ」
青年はそう誤魔化して、潤み始めた瞳を拭った。未練を振り切って立ち上がった彼は、足早に洗面所へと向かう。
「高耶さん……」
心配そうな声が背後からかけられ、
「悪い、すぐ戻るから」
青年は返事を投げると、勢いよく水を出して顔を洗い始めたのだった。
顔をすっきりさせた青年が戻ってみると、男は六畳間を占めていた布団をきれいに畳んで、その横に佇んでいた。ただ佇んでいるだけでも、やっぱりどう見てもこの部屋には似つかわしくない、イイ男っぷりである。窓から差し込む朝の光が、その見事なシルエットを浮き彫りにしていた。
「高耶さん、大丈夫でしたか?」
「あ、平気。おまえも洗面所使えよ。タオルは籠の中にあるから好きに使ってくれていいし」
「すみません。それではお借りします」
男が洗面所に消えると、青年はふっと肩の力を抜いて、流し台に立った。
程なく、狭いアパートの一室には、香ばしいトーストと熱々のハムエッグの匂いが広がってゆく。
洗面所を済ませて戻ってきた男は、六畳一間の真ん中に置かれた小さなちゃぶ台の上で湯気を立てる朝御飯に目を見張るのだった。
「さすがにいい男は朝の洗面に時間をかけるんだな。ちょうど飯ができたぜ」
エプロンを外しながらちゃぶ台のところへ戻ってきた青年が、半ばからかうように笑っている。
上流階級の奥様連中をめろめろにさせている超一流ホストは、その甘いマスクに似つかわしくない不思議な表情で、沈黙していた。
「なんだ?そんなとこに突っ立ってないで、ここきて座れよ。座布団小さくて悪いけど」
先に席に着いた青年が、不審そうに首を傾げると、男ははっと我に返った様子でちゃぶ台に歩み寄った。
「こんな狭い食卓、初めてじゃねーか?大の男二人が顔を突き合わすには、小さすぎるよな。このちゃぶ台」
この二人が位置に着くと、小さなテーブルを囲んだ長身の男性二人は、些か近すぎるほど近くに顔を突き合わせることになる。取り上げたマグカップ同士がぶつかりそうになり、二人は慌てて手を引っ込めると、どちらからともなく笑い出した。
「すみません、笑ったりして。……でも、これは新婚さんなんかにはたまらない距離でしょうね」
くすくす笑いを先に収めた男がふと呟くと、青年の表情がわずかに動いた。内心の動揺を、マグカップを覗き込むことで収め、顔を上げざま笑顔を作る。
「ほんとだな。オレみたいなとこに来てくれる嫁さんがいればの話だけど」
口にするそばから苦くなる台詞だが、男はそんな相手の複雑な内心には気づかなかったようである。
「私には不思議ですよ。あなたみたいな人を見過ごしている女性たちが」
目の前にいる、優しくて器用で顔立ちも整った、文句のつけようのない好青年をまじまじと見つめ、その人のこしらえた美味しい朝食に舌鼓を打った彼は、不思議そうに首をひねった。
「まあ、オレは貧乏学生だから。女の子はもっと付き合いのいいやつを好きになるさ、残念ながら。
オレはともかく、直江だって、どうして本命を作らないんだよ?おまえだったら、どんなに難しい条件で探したって、断られるはずないのに」
才女で、美女で、料理も得意で、気だてが良くて。
そんな理想をすべて具現する一握りの女性だって口説けるだろうに。
そんなふうに語る青年の瞳に、男はしかし首を振る。過去に何度も同じ問答を繰り返してきたらしい僅かな苦笑を浮かべて。
「生憎と、私には結婚願望がないんですよ。……と言っても、不特定多数と自由なつきあいをしたいという意味ではありませんよ、誤解しないで」
その言葉に対する青年の表情を呆れと捉えたか、男は少し口調を早めて言い添えた。
「自分だけのものにしたい人に出会ったこともないし、そういう人との出会いを求めて積極的に動く気もありませんし、結果として、こういうことになっているわけです」
「ふーん。直江って情は濃やかなのに、淡泊なんだなぁ」
決して人生を突き放したような冷たい目をしているわけではないのに、優しい、よく気のつく男なのに、アンバランスなほどに淡泊なのだ。胸を焦がすような恋をしたこともなければ、したいと望んだこともないと彼は言う。
「オレは、恋したらめちゃくちゃ悩んで頭ぐちゃぐちゃになっちまうけどな」
まさに今の心境をぽろりと呟いた青年に、男がふと表情を動かした。
「あなたは誰かと付き合ったことはないと言っていましたね。その後、好きな人ができたんですか?」
味噌汁の椀を宙で静止させて、男は瞳を真剣な色に変える。じっと見据えるように瞳の奥を見つめられ、青年はかっと熱くなった。辛うじて顔色に出さない程度には抑えていられたが、
「え、いや、そういうわけじゃ」
揺れる声には彼の動揺がはっきりと表れている。茶碗と箸を振り回しての否定に、対する男はほっと肩の力を抜いた。
「それなら誘いやすいです。よかった」
味噌汁の椀を行儀良くちゃぶ台に戻して両手を空にすると、彼は改めて青年に向き直った。
「誘うって、何が?」
動揺を何とかしようと茶をがぶ飲みしていた青年が、男の台詞に視線を動かす。
どう見ても似つかわしくない狭い食卓に足を縮めて正座している超一流ホストは、そして、目の前の青年にとっては予想もしない爆弾発言を投げた。
「今度のクリスマス、おいやでなかったら、一緒に食事をいかがですか?」
「えっ !? 」
青年は今度こそ顔中に動揺を表した。茶を噴いたり湯飲みを放り出さなかっただけましであるが。
「やっぱり、予定がありましたか」
しかし、そんな青年のあからさまな動揺を悪い方に解釈したらしいホストは少し眉を曇らせてしまった。顰めてもなお一層美しい顔かたちはさすがである。かの有名なる故事を思い出させる光景だったが、
「いや、予定って言っても、学校の集中講義だけど。……晩はもちろん、空いてる」
青年の精神には、傾城の美女のことなど考えている余裕はなかった。湯飲みをちゃぶ台に置いて、慌てて両手を振っている。否定の仕草までオーバーアクションになってしまっている彼の様子は、傍目には奇妙とすら言えそうだったが、対する男の精神構造はけっして『普通』ではなく、いともあっさり破顔するのだった。
「よかった。じゃあここまで迎えに来ますね。六時ごろは大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
一気に時間まで決めてしまう男の勢いに押されるようにしてかくかくと首を振った青年は、ここでようやく少し息をついた。
「でも、なんでオレを……?お客さんとか、いるんじゃないのか」
「私はもともと、イブとクリスマス当日にはお客様を取らないんです。誰か一人だけ特別扱いしたいと思うような相手はいませんし。でも、今年は高耶さんと知り合って、一緒にいるととても楽しいから、お誘いしました」
一撃必殺の流し目で青年を射抜いた男は、無意識だというのならばあまりにも罪つくりな微笑みを浮かべて、青年へ笑いかけている。
「そ、そっか……。うん。オレも楽しみだ」
にこにこしている男からやっとのことで目をそらして、気の毒な恋する青年はしどろもどろに答えたのだった。
青年は男にとってこのうえない『特別』として、あまたいる客とは全く異なった次元で愛されているものの、決定的に何かがすれ違ってしまっている二人なのだった。
05/06/02
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