Cherry,
Cherry,
Cherry!




















 14




 クリスマスまであと十日あまりとなった、年の暮れ。
 ぽっかりと空いた心の穴を忘れようというように我武者羅に机に向かい、この一週間で一気に仕上げた卒業論文を担当教官に提出してきた大学四年生は、アパートの一階の壁に据え付けられた古い郵便受けに鍵を差し込み、がたつく扉を開けて、おや、と瞬いた。
 夕刊と水道料金の明細を記した小さな紙片と共にそこに収まっていたのは、心当たりの無い封書。友人や妹が寄越したにしてはかっちりとし過ぎている縦長の封筒には、どこかで見たような美しい文字で自分の名が記されていた。
 それが誰の筆跡であるのか思い出せないままに封筒を裏返してみて、差出人の名に目を落とした青年は、掛け値なしに驚いた。自分のところへ手紙を寄越す可能性のある人間のうち、最も想定されなかった人物のものだったのだ。
 震える手で封を切ろうとして、ふと思いとどまった青年は、夕刊やら請求書やらとまとめて引っつかみ、靴音を高く響かせながら鉄階段を上っていった。

 ドアを開け、狭い玄関に身を滑り込ませて、手探りに灯りのスイッチを押す。後ろ手に鍵を閉め、かかとを踏んで横着に靴を脱いだ青年は、手に握っていた紙の束をちゃぶ台に置いて、ひとまず上着を脱いだ。肩に引っ掛けていた鞄を畳の上に下ろし、思いついたように炊事場に立ってコップに水を入れる。一口飲んだそれを片手に、意味もなく六畳の部屋を歩き回り、カーテンを閉めなおしたり、ハンガーにかけた上着の皺をぴんと伸ばしたり、ひとしきり気を逸らした彼は、ようやくその目をちゃぶ台の上へ向けた。

 さようなら、って書いてあるのかな。

 この間、ひどい別れ方をしてしまった。逆ギレして、直江は何も悪くないのに、傷つけて追い出した。それでも直江は優しいから、こうやって手紙まで出してくれて、それでさようならを言ってくれるのかもしれない。
 たとえ最後の手紙でも、直江の筆跡を見ただけで幸せになってしまう自分が、馬鹿だけどやっぱり嬉しい―――


 そして、一つ呼吸してから躊躇いなく封を切った青年は、逆さにした封筒からこぼれ出た三種類の紙片に首を傾げた。






★ ★ ★ ★ ★ ★







 男は待ち合わせの時間より一時間早くからその場所で待っていた。クリスマス直前の国際空港は混雑を極めていたが、その中にあって男の存在はひときわ目立っていた。
ラフなスーツに身を包み、サングラスで目元を覆っていても、その整った容貌は隠しようもない。身につけているものの上質さ、完璧に仕付けられた血統の良さが窺われる物腰、時折目をやる腕時計の控えめな輝き、どれひとつ取ってみても目を引く男だ。
 大きなスーツケースを転がして忙しく行き交う人々は、国籍の別、老若男女の区別なく、ほとんど例外なしにその男に目を留めて歩く速度を緩めたが、男の目はただ一人の待ち人をのみ探して彷徨っていた。他人の通行の妨げにならぬよう通路の一角の壁際に寄って立っている男一人のために、空港内の混雑が一部過剰化されていることを、当人は全く気づいていない。待ち人のことで頭が一杯なのだ。

 待ち合わせは十時半。フライトまで二時間の余裕をもっての時間設定だから、相手が多少遅れたところで問題はないのだが、男が何度も時計を気にして落ち着かないのは、他に理由があるからだった。


 彼は果たして、来てくれるだろうか。


 気の利かない自分が傷つけて口論の末に別れてしまったあの日。
 一週間の間を置いて送った手紙には、フライトのチケットと空港までのタクシー券を同封しておいた。以前約束した旅行に行こうと誘う内容の手紙だが、酒が入って眠りかけていた彼にとっては、身に覚えの無い『約束』だろう。ケンカした相手から唐突に旅行に誘われても、来てくれるかどうかはわからない。まして彼は大学四年生だ。卒業を間近に控え、論文の提出やら何やら、きっと予定は詰まりに詰まっていることだろう。それらを全て反故にしてまで自分との旅行に出てきてくれるなんて、甘い期待にも程がある。

 男はこの一週間ですっかり癖になってしまった煙草を取り出し、禁煙である通路から移動して寒風の吹きつける屋外へ出た。
 うまいとも思えない煙草を数分の間ふかして、次々と入ってくるタクシーの何れにも青年を見つけられなかったことに失意を覚えながら、彼はそれでも行儀良く吸殻をゴミ箱に捨てると、再び屋内の一角へ戻ってガラス越しにタクシーターミナルを見守り続けた。

 そして再び、忙しい旅行客たちの目を一つ残らず奪って、一体こんないい男を待たせているのはどんな美女なのだろうかと余計な好奇心を刺激させ、空港内の混雑を部分的に過剰化させながら、百人に声をかけても百人が断らないであろう極上の男はたった一人の待ち人を思ってそわそわと落ち着かず過ごしたのだった。



 手続きカウンターがずらりと並ぶ第二ターミナルの真ん中に据えられた大時計が、ポンと一つ、鐘を鳴らした。とうとう待ち合わせの時間が過ぎた。
しかし、タクシー乗り場から一度も目を逸らさなかった男の視界に、その人は現れない。

 二度、諦められずゆっくりと時計に目を落として、ため息をつきながら、男がふと思いついて反対方向に視線を流したとき、

「―――悪い、待たせた!」

 そこに彼はいた。見慣れた黒いジーンズに白いマフラー姿で、大きめのスーツケースを転がしてこちらへ向かってくる。タクシーの着き場とは明らかに違うその方向は男の予想外のもので、彼は条件反射的に歩き出しながらも、顔に疑問符を張り付かせた。

「どうして……電車で来たんですか?」
「いや。ちょっと早く着きすぎたんで、中をうろうろしてた。本を買おうと思ってレジに並んだら、前の客がトラブッてて遅れちまった。ごめんな」

 半ば駆けるようにして近づいてくる青年の傍へ、同じく大またに歩み寄って辿り着いた男が驚きを隠せず呟くと、相手は済まなさそうな顔になって首を振った。

「いえ、そんなことはいいんです。来てくれてありがとう。それだけで嬉しい」

 男は青年が思わず黙ってしまうほど無防備に微笑むと、さり気ない動きで相手の手からスーツケースを取り上げた。慣れた様子で連れの荷物を転がして先導する彼に、少し遅れて青年が続く。男の待ち合わせの相手が一体どんな人物なのかと興味津々で見守っていたギャラリーの目が二人を追いかけるのを、当人たちは気づかない。

「いいのに……。悪いな」

 千秋のやつを借りてきて良かった。

 上質の黒いコートを羽織った男の手に、不似合いな安物のスーツケースを持たせずに済んだことだけが幸いだと、青年は小さく息を付いた。
 たとえそれが彼の出で立ちに全くそぐわない安物でも何ら頓着しなかったであろう男は、青年の中のそんな呟きには気づくこともなく、

「いえ。これを持ったままうろうろしていたなら大変だったでしょう。すみませんでした」

と目顔で謝った。周りでこの二人連れに視線を釘付けにしているギャラリーたちが聞いたら驚くであろう腰の低さは、慣れた青年にとっても居心地のよいものではない。

「なんで直江が謝るんだよ。オレが早く着きすぎただけなんだからさ。……それにしても、直江は荷物それだけ?」

 青年は首を振って話を終わらせると、まるでほんのちょっとしたビジネストリップに出かけますという風情の書類鞄を一つ提げただけの男に不思議そうな眼差しを向けた。
 このコンパクトな鞄では、どう見ても一週間分の旅の用意があるとは思えない。……四次元ポケットでも備えていない限りは。

「荷物整理はどうも苦手で。だから何も持たないことにしているんです。それに、今回はリゾートですしね」

 勿論、男はそんな魔法を使ったわけではなかった。苦笑して白状した内容は青年にとっては意外なもので、彼は『実は四次元ポケットが入っているんですよ』と言われるよりも驚いた顔になる。

「へえ……直江にも苦手なことがあるんだな」

 首を傾げて鮮やかに笑った青年をまぶしそうに見つめ、男もつられるように微笑んだ。


05/12/04



迷える子羊の次なる手は、「旅行に誘う」でした。
ものすごく前に張ってあった伏線(というかモロに書いていましたが)をようやく展開できました。
というわけで、次回から『真夏のクリスマス』編です〜。
2005クリスマス企画の一部ってことにしてしまいます。


読んでくださってありがとうございました。
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