何もかもが一変してしまった。
―――そう気づくまでには、長い時間はかからなかった。
何をきっかけにしてそれが起こったのかということははっきりしている。一生に一度も無いであろう貴重な経験をした日が全ての始まりだ。
百戦錬磨の完璧ないい男。
タダほど怖いものはないというが、まさにその通りだ。
一生縁が無い筈の素晴らしい料理をご馳走になり、一泊一体幾らかかるのだろうと空恐ろしく思い返した一流ホテルのスイートのベッドに沈んで快眠を貪ったあの日。ありがたい経験だと喜ぶどころか、後で頭を抱えるほどとんでもないことになってしまった。
一文も支払わなかった代わりに、想像もしなかったものを取られてしまったのだ。―――否、勝手に置いてきた。相手は気づいてもいないだろうけれど。
たった一週間で思い知らされた。
あの男の笑くぼが好きだと言ったのは、体を心配したのは、可愛い園児たちに対する気遣いとは全く違う次元からもたらされたものだった、と。
青年はほんの一瞬も心の隅から消すことのできなかった面影を雑踏の中に見つけて、何も考えず迸るようにその名を呼んだのだった。
「―――ぁ」
『彼』の職業と仕事名を思い出し、うっかり本名を呼んでしまったことを悔やんだのはすぐのこと。
けれど、相手が振り返るよりも先に逃げようと踵を返した時には遅かった。
「―――高耶さん!」
数歩と進まぬうちに懐かしい声が間近で聞こえ、それと同時に腕をつかまえられてしまったのである。
鼓膜を快く刺激する低めの美声が、温かい大きな手のひらが、誰のものであるかなど、考えるまでもない。
「……直江」
顔を見ることを半ば恐れてでもいるようなのろのろとした動きで青年が振り返ると、忘れようもない瞳が優しく微笑んでいた。
「どうして逃げるんですか?思わず追いかけて来てしまいましたよ。……高耶さん?高耶さん!」
優しくて滑らかな声を聞いているうちに、青年はふっと意識が遠くなるのを感じた。
腕をつかまえていた相手が背を支えて驚いたように名を連呼するのを意識のヴェール越しに聞きながら、彼は目を閉じる。
頭が真っ白になって、がんがん鳴っている。
何かに似た感覚―――そう、これは―――
「どうしたのよ義明?……あら、そのボウヤ、この間の子じゃない。どうしたの?」
「……熱があるようだ。佳澄さん、申し訳ないが今夜はキャンセルさせていただきます」
「何だか最近トラブル続きね。ふふ」
「本当にすみませんね。でも放っておくわけにはいきませんから」
「別にいいわよ。この子には危ないところを助けてもらったし、私も心配だもの」
幾重にも重ねたヴェールの向こうで交わされる会話を夢現に聞きながら、高耶は強い腕が自分を抱え上げるのを感じた。
「―――知恵熱?」
ホテルの医務室に連絡して部屋へ往診に来てもらったところ、診断は上のようなものだった。
「のようですね。何をそんなに一生懸命考えていたんですか?」
医師の診断を聞いてほっと安堵した直江は、丁寧に礼を言って彼を送り出すと、ミニバーから壜入りのミネラルウォーターを取り、それから青年の枕元に戻った。
「何って……」
背を起こした青年にグラスを差し出し、結果を伝えてから尋ねてみると、彼は少し口ごもるようにして俯いた。
困惑しているような、どうしたらいいのかわからないというような、けれど何だか嬉しそうにも見える、不思議な表情である。
直江はどうしたのだろうと訝って、手を伸ばした。
「っ」
俯いた額に温かな手の感触をおぼえて、青年は直江の方が驚くほど、過剰な反応を見せた。
ぱっと上げられた顔は直江の眼差しにぶつかって、長く見つめられていたことに気づいたらしい。さらに動揺して、彼は心なしか赤くなったようだった。
「……高耶さん?やっぱり熱が高いんじゃないですか」
心配した直江が何気なしに顔を寄せ、額をくっつけたものだから、高耶はたまらない。
「な、何でもないっ、大丈夫だ!」
まるで逃げるように身を後退させ、ベッドに背中から倒れ込むと横を向いてぐるんと丸まってしまった。
その仕草が子どもっぽくて、男はくすりと笑う。
蹴飛ばされたままの掛け布団を引き上げて青年の背中に掛けてやると、彼は笑みをたたえたまま相手の傍らに腰掛けた。
ベッドが音もなく沈んで、緊張している青年をさらに苛む。
「……体温が高いと、子どものようですね……」
手が伸ばされて、髪に触れてきた。
幼い子どもにするようにさらさらと梳かれて、相手には何の気もない行動なのだとわかっていても緊張が高まるばかりの高耶だった。
「……どうしたの?眠いんですか」
かがみ込むようにして声を掛けられ、重心が移動するのをまざまざと感じた高耶は、ますます丸く身を縮めた。
「眠かったら寝ていて構いませんよ……本当は楽な衣服に換えた方がいいんですが、まぁそのままでも襟を開ければ大丈夫でしょう」
ボタンを外そうと手を伸ばされて、さすがに黙っていられなくなった。
いくらなんでも子ども扱いしすぎだ。
こちらはこんなに悩んでいるというのに、相手のこの鈍さは何なんだ。
甲斐甲斐しい世話があまりにも何気なさすぎて腹が立つ。
「いいっ……自分でできるから、触んなっ」
声が尖っているのに気づいたのか、直江は少し眉を寄せた。
「ご機嫌斜めですね。やっぱりあまり具合が良くないんでしょう。ゆっくり休んでくださっていいですからね」
具合は良くないとも。たしかに。
「……子ども扱いばっか」
ぶすっとして呟く青年に、男は虚を突かれた顔になる。
「え?もしかしてそれで怒ってたんですか?」
青年にはその驚きようすらも腹立たしくて。
「お前だって嫌だろ。22にもなって知恵熱でぶっ倒れて介抱されて、その上ベボラップ……」
何を言っているのか自分でもよくわからないような言葉まで飛び出してしまう始末だった。
「はい?ベボラップは風邪の時の薬でしょう?」
案の定、相手は不思議そうに首を傾げた。脈絡のない単語に戸惑う様子である。
高耶は頭を抱えて唸った。自分でも妙なものを持ち出したと思うのだが、それを説明するのは無理のように思えた。
「えっと、だから、それは言葉のあやだよ。お前、オレのボタン外そうとしただろ」
台詞の前半は言い訳にもならない内容のものだったが、後半を聞いて男は成る程と頷く。
「ああそういえば昔、風邪をひくと母が胸に塗ってくれましたね」
「だから、それは子ども扱いじゃねーか。失礼するぜ。もう就職も決まってる歳の男に」
「ああ、すみません。何だかあなたといるととてもいたわりたくなるんです。いつも一生懸命で生き生きして、可愛いから」
綺麗な微笑みと共にそんな風に言われて、高耶は言葉に詰まってしまった。
「……可愛いとか、言うなよ」
ややあって、怒ったような呟きが返されると、直江は再び微笑んだ。
「怒らせるつもりで言ったんじゃないんです。見ていてとても幸せな気持ちになれるすがしさをあなたからは感じる。だから可愛いんですよ、私のような半分墓に入ったような諦観的な人間から見るとね」
「それが大人ってもんだろ。それに、直江は落ち着いてて穏やかで、オレから見たらお前の方がずっと羨ましい」
澄んだ瞳が不思議そうに見上げてくるのを、たまらなく愛おしい気分で見返して、直江は相手のその綺麗な瞳のそばに指先で触れた。
「あなたの言葉はとても綺麗で、だからそう言ってもらえると本当に嬉しい」
鳶色の瞳には深い光がたたえられて高耶を見つめている。
その瞳を見ていると、まるで錯覚を起こしてしまいそうだ。自分の瞳とこの男の瞳は、確かに交わっているのだと。……そんなことはない、ただの自分の期待なだけなのに。
「どうか、しましたか」
ふいに哀しげに曇った瞳に、直江は訝る眼差しになった。
「悪いことを言いましたか、私は」
心配そうに見つめてくる瞳は、既に子をいたわる親のようなあの色に戻っていて、高耶はもっと切なくなった。
「何でもねーよ」
「そんなこと、ないでしょう。あなたのそんな瞳を見たのは初めてですよ。泣きそうだ」
目尻に人差し指が触れてくる。
「ばかやろう。泣くもんか」
「そうですか?でもほら、潤んでる」
覗き込まれるようにして囁かれ、その低くて豊かな声に恍惚とする。
「……熱のせいだろ」
見ていられなくて目を逸らすと、少しの沈黙をおいて、相手が哀しげな吐息をついた。
「私がここにいるから嫌なんですか」
「え?」
思いもよらない台詞に、青年が目を見開く。
「私の顔を見てからでしょう?あなたが動揺したのは。……そんなに、嫌ですか。近くに寄られたくない?」
拒絶された人間の瞳はとても哀しい。気に入って愛情を注いだ相手に冷たくされるときっとこんな光を浮かべるのだろう。
「ばかやろう!」
高耶は叫んで激しく首を振った。
「誰がお前が嫌いだなんて言った。顔も見たくないなんて。触られるのが嫌なんて違う。オレは……オレは」
跳ね起きた彼は相手の襟をつかんで揺さぶった。
「……高耶さん?」
不思議そうに見つめてくる瞳に怯むことなく、青年は懸命に言葉を紡ぐ。
「オレは、お前に会えて嬉しかったよ。会えると思ってなかったからびっくりして、動揺したけど、嫌だったなんてとんでもない。全然違う。
オレは嬉しかったんだ」
彼の言葉はいつも偽りなく本心を語っているとわかるから、男はふっと微笑んだ。
「嬉しいことを言ってくれますね。私もあなたに会えて嬉しいですよ。本当にね」
そう言って頷くと、相手は小さくため息をついて、男から手を離した。
その顔がどこか翳っているように思ったのは錯覚であろうかと一瞬疑った男だが、相手が言葉を続けたので意識をそちらへ移した。
「……そっか。良かった。また一回でもいい、会えたらな、って思ってたから、本当に嬉しかった」
仕事抜きで楽しく過ごすことのできた貴重な相手に『また会えて嬉しい』と言われて喜ばない男ではない。
「またいつでも会えますよ。何も今生の別れじゃあるまいし」
こちらも嬉しそうに笑むと、対する青年の顔がぱっと明るくなった。
「ほんとか?また会ってくれる?」
「ええ。―――何をそんなに思い詰めていたんですか?私はいつもこの街にいるんですよ。連絡を取ればいつでも会える。偶然が一度しかないなら、必然にすればいい。友達になったらいいんです」
男は何でもないようにそう言ったが、対する青年の顔は少し不思議そうに彼を見つめ返している。
「『友達』?……オレたち、友達になれるのか?歳も違えば育った環境も職業も住む世界も何もかも違う、オレたちなのに」
「なれますよ。そんな難しく考えなくても、ただの一人の人間同士なんですから。
会いたくなったらあなたに会いに行きましょう。あなたから来てくれてもいい。手紙なり電話なり、連絡をつけてくださればいいんです」
男が言うと、青年はしばし押し黙り、そして真剣な眼差しになって男をじっと見た。
「―――『橘義明』の時間を貰っていいのか?オレ、金ないのに」
真面目に思い詰めた様子に、直江は苦笑した。
「あなたは難しく考えすぎなんですよ。友達と会うのにお金を払う人間がどこにいるんです?まして、そんなものを受け取る人間がどこにいると思うんですか。あなたはお客様じゃない。友達なんですよ?」
「友達……」
青年は舌の上で転がすようにして、その単語を発音した。
「こんなに話が合ってお互い気に入っているのだから、それは友達と呼んでいいでしょう?」
男の微笑みに、青年は綺麗な笑顔を返す。
「……うん。嬉しい」
本当は少し違うものが欲しいんだけど。
でも公認で友達になれるのならとても嬉しいし、よかったと思う。
そんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかったから。一回りも違うのに、まともに相手をしてくれるなんて。
それだけで十分嬉しいことなんだ。
……それ以上を望むのが間違っているだけ。
03/06/01
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