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きらめく街灯とイルミネーションの下を、ゆったりと歩く二人連れの男女がいる。
一方は俳優かモデルかという推測に疑いを差し挟めない綺麗なスタイルを保った長身の男。ショーウィンドウの明かりに浮き上がっては沈むその横顔は彫りが深く、滅多にない整った顔立ちでありながらも厭味のない男ぶりである。
また、身につけた物の類も華美なところのない落ち着いたデザインで、洗練されているという形容がぴったりと当てはまった。
他方、その男に軽く腰を抱かれて歩く傍らの女性も、連れに見劣りのしない容姿を持っている。小さく締まった顔は柔らかなウェーブを描く艶やかな髪に縁取られ、すんなりとした首に掛かったプラチナの鎖は白い肌に映えて輝く。ベージュのコートは清楚な丈を保ち、そこから伸びた脚は華奢なハイヒールに続いて、小さく歩を刻む様子がおとなしやかに美しかった。
男の腕を脇に抱いて軽く頭を凭れかけた状態でも、その仕草には媚びたような厭味がなく、見る者の眉を顰めさせることはない。
周りの人間が思わず視線を向けてしまうような美男美女のカップルだったが、―――実のところその二人は普通の恋人同士ではなかった。
「先日はお騒がせしてしまってご免なさいね」
女性が男性を見上げると、相手は柔らかに目元で笑う。
「いいえ。その後ご主人はいかがですか。随分と痛そうになさっていましたが」
男性の言葉を第三者が聞いていれば、おそらく目を見張ったであろう。
彼は確かに『ご主人』と言った。それは通常、戸籍上の夫を持つ女性に対してのみ使う言葉である。
すなわち―――女性には連れの男性の他に夫がいるということになる。
彼女は男性の言葉に小さく頷いて笑った。可笑しそうに引っ張られたその形の良い唇から白い歯が覗いて、どこか少女めいた可愛らしさがそこにある。
見たところ、年齢は三十代前半と見える男よりも少し年下か、もしくは一つ二つ年上かもしれないという感じであった。いずれにしてもまだ若く美しい女性である。
彼女は思い出し笑いであるらしい悪戯な笑みの下から、こんな風に言った。
「おかげさまで、とっても甘い日々を送らせてもらっているわ。あの人ったら、一人では食事ができないからって私に食べさせるのよ。子どもみたい」
「それはそれは。仲の良いことはよろしいですね」
腕を組んで歩いている男に夫の話をして惚気る女性もなかなかの強者であるが、くすくすと喉の奥で笑って相槌を打つ間男も、相当の変わり者であろう。
―――そう、この二人、まっとうな恋人でもなければ、人目を忍ぶ不倫関係の間柄というものでもなかった。契約して一夜の逢瀬を楽しむ、紙切れ上の恋人なのである。
そして、彼らの会話を余程勘の良い人間が聞けば、二人の間に肉体を交わす関係の無いことに気づいたであろう。
ただこうして軽い会話を交わすだけであり、二人の間には生々しい感情の一切が見えなかった。
男性はその道では名を知らぬ者の無い超一流ホストである。
そして、連れの女性は彼の顧客の中でも彼が特に気に入っている女性であった。本来の旦那に心底惚れていて先ほどのように平気で惚気るようなところも、守ってやりたくなるようなたおやかさと同時にこちらを包み込むような母性を持っているところも、男には好ましかった。
女性の側も、容姿、知性のいずれにも秀でた男と過ごす時間は楽しく、また愚痴を親身になって聞いてくれる相手の存在は掛け替えのないものであった。
今夜は一週間前にちょっとしたアクシデントのため中止にせざるを得なかった逢瀬の仕切りなおしなのである。
「ところであなたこそあの後どうしたの?寂しく一人寝、だなんておかしなことは言わないで頂戴ね。信じないわよ」
楽しそうに男を見上げた女性に、苦笑に似たものを唇に刻んで、相手が返事をしようと口を開きかけたときだった。
その表情がはっと変化する。
彼の意識がどこか別の場所へ向いたのだと、女性は気づいた。
仕事中に客から意識を離すなんて珍しいこともあるものだ、と彼女が不思議に思うよりも先に、男は自分を呼んだ誰かの方へ振り向いていた。
まるで誰かを探すように夜の雑踏を歩いていた一人の青年が、衆目を集めずにはいられない一組の男女に気づいたのは、その少し前のことである。
青年は年の頃二十二三歳、どちらかというと長身の部類に入るその体はまだしなやかそうで若いエネルギーをまとっている。
ルーズでもなくスリムでもなく丁度良いサイズのブラックジーンズに、ごわごわした風合いの黒いブルゾンを着込み、その首に手編みと思しき白のマフラーを巻いて歩く姿は取り立てて珍しいところもなく、多くの人間が行き交う夜の交差点にしっくりと溶け込んでいた。
―――否、服装には目立つところはなかったが、彼の瞳はひどく印象的である。
日本人の瞳は黒いと総じて言われるが、実際には完全な黒を持つ人間は多くない。茶色みが強い場合もあるし、どこか青みがかった黒のような場合もある。だが、この青年の瞳は正真正銘の漆黒であった。
ぬば珠の闇という言い回しがある。ちょうど黒曜石のような、彼の瞳はそんな色をしていた。
しかし、青年の瞳が印象的なのはその色の問題だけではない。そのまっすぐで澄んだ眼差しそのものが、あまり見かけない特異なものであった。
その瞳が、あてもなく彷徨っていた先に、何かを見つけた。
「―――」
黒い瞳は見開かれて、夜の猫のように不思議に光った。
―――後姿だけでも一目でわかる、一対の男女。
あの二人を知っている。僅か一週間前にも見掛けたのだ。
不思議な女性とその嫉妬深い夫。
そして、二人を見送った男―――
「なおえっ……!」
青年は思わず叫んでいた。
03/06/07
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