baby,baby!―――出会い編



「ところで、あなたのお名前をまだ伺っていませんね」
 腹を空かして目を覚ました赤ん坊にミルクを作ってやり、ゴムの乳首に吸い付くその小さな生き物の様子を愛しく見つめたところで、男が口を開いた。
 感傷的になっていたことですっかり忘れてしまっていたその事実に、青年はぱっと顔を上げる。
「そうだったな……ごめん、忘れてた」
 少し赤くなって謝る様子が可愛くて、男は首を振った。
「謝ることではありませんよ。それで、何というお名前なんですか?赤ちゃんは明ちゃんですよね」
「いや、正確には『明』じゃなくて、『明夜』。明るい夜で、めいや」
 青年は赤ん坊をそっと揺すぶりながら愛しげに呟いた。
「明るい夜で、めいやちゃんですか……字面は可愛くて、響きはかっこいい感じですね。綺麗なお名前だ」
 舌に乗せてみて頷いた男は、ふわりと微笑みを浮かべる。それを隣から見上げた青年は嬉しそうに笑った。
「こいつが生まれた夜、星と月がすごく綺麗だったんだ。それで、名前にしようと思ったんだけど、『星夜』じゃ男みたいだし、『月夜』とか『満月』だといじめられる種になりそうだろ。それで、明るい夜」
 一心にミルクを飲む赤ん坊の頭に指先をもぐりこませて撫でながら、彼はとても幸せそうに微笑んでいる。
「明ちゃんはお父さんにとっても愛されて生まれてきたんですね。よかったですね、明ちゃん」
 横からそっと手を伸ばして、男が赤ん坊の頬に触れた。赤ん坊は男の言葉を理解することもなく、ただ一生懸命哺乳瓶に吸い付いている。
 男はそんな小さな生き物に目を細めていたが、青年は瞳を真摯なものに戻して少しだけ沈黙してから口を開いた。
「……母親も、こいつのことすごく大事にしてたぜ」

 初めて青年の口から赤ん坊の母親のことが出て、男ははっと彼の目を見た。
「こんな両親を親に持って、って不憫でしかたがなかったオレとは違って、こいつのかーさんは前向きだった。重そうな腹を抱えて、でもいつも笑ってた」
 青年の言葉はまるでなめらかな硝子の上を滑り落ちるように、穏やかだった。
 赤ん坊の母親のことは彼の中では既に過去なのだ。
「明るい人だったんですね」
 生き別れにしろ死に別れにしろ、青年はもう、その女性と元通りになることはないのだろう。
 男は、当たり障りの無い相槌を打つよりほかに何も思いつかなかった。
「明るいし、前向きだし、元気で強くてパワフルな人だよ、ねーさんは」
 青年が現在形で彼女を語ったことよりも、男にとってその呼びかけ方のほうが衝撃だった。
「ねーさん?」
 思わず語尾が上がった彼に、相手はああという顔になって首を振る。
「違う。本当の姉じゃねーよ。ただ、施設にいたときからずっと姉弟みたいな間柄だったから、その名残」
 男はその説明で納得したが、さらに引っかかる言葉に対して控えめに口を挟んだ。
「施設というと……あなたも彼女も身寄りがなかったんですか?」
 青年は頷く。
「最初からな。死に別れですらなくて、捨て子だったよ、オレもねーさんも。だからこの世に誰一人身寄りなんてない。……こいつも、オレ以外に頼りになるものがないんだよ」
 満腹になってゴムから口を離した赤ん坊は、青年の腕の中でとろとろとまどろんでいる。その頬をそうっと撫でながら、若い父親は静かに呟いた。
 たった二人の共同体なのだと、静かな覚悟がそこにある。広い広い世界の中にただ二人だけで生きているのだ、と。
 その言葉は静かであったがゆえに、よりいっそう鋭く男の胸を刺した。

「……今は私がいるでしょう?」
 青年の手のひらに、大きな温かい手が重ねられた。
「私では頼りにならない?丸ごと預けてくださいとはまだ言えないかもしれないけれど、せめて重荷の半分でも下ろしてはくれませんか。
 あなたが明ちゃんを守って、私があなたを守る。それではいけませんか……?」
 男も静かにそう囁く。
「つらいとき、苦しいとき、一番最後にでもいいから、私のことを思い出してはくれませんか」

「……ありがとう……」
 青年が、ゆっくりと微笑んだ。

「今は、そうかも。昨日まであんなに張りつめてたのに、今はすごく穏やかな気分でいられる。
 ―――たぶん、直江がいてくれるからだ。無意識に頼りにしてるんだと思う」
 本当に穏やかに青年は笑う。その瞳には甘えの欠片も無いけれど、確かに彼は目の前にいる男を頼りに思っているのだろう。追いつめられた焦りも、恐慌も、そこには見えない。

「あんまりうまく話せないけど、聞いてくれ。オレと明と、母親のこと……」
 青年はそう言って、一度ゆっくりと目を閉じた。


「―――まずオレの名前な。『高耶』だ。仰木高耶」
「おうぎたかやさん、ですか?字は?」
 知り合って二日目に、ようやく知ることのできた名前を、男は反芻してみて、瞳を見た。
「『木』を『仰ぐ』で『仰木』。『高い』に、耳へんとおおざとで『耶』。
 あんまり使わない字だろ」
「高耶さんというお名前は、高いなぁ、という意味ですね。大きく元気に育ってほしいという思いがこめられたお名前なのではありませんか」
 男の穏やかな声が青年の心にゆっくりとしみわたる。ゆるみそうになった涙腺を慌てて引き締めて、青年は首を振った。
「そんな大層なもんじゃねーよ、別に。園長の親戚とかから貰ってきた文字を寄せ集めて作ってるんだ。……んで、こいつの生まれた経緯だけど」
 青年は顔を真剣にして、少し言葉を切った。
「オレたちは十八になると施設を出て自活することになってるんだ。それで、オレも施設出てきて東京に来た。先に出てたねーさんが近くに空いてる部屋があるからって声かけてくれて。仕事もバイトだけど見つかって、そこで暮らしてた。……言っとくけど一緒に住んでたわけじゃねーぞ。ねーさんはあくまでねーさんだったから」
 男の顔を見ながら話していた青年は相手の表情の変化を見て口調を早めた。相手は彼の言い回しに籠められたニュアンスを嗅ぎ取って頷く。
「まだ姉弟の感覚だったんですね」
 相手は少しだけ首を傾げて頷いた。
「まだっていうか、ずっとかな」
「……ずっと?」
 引っかかる言葉に反応した男に、彼は淡々と説明を続ける。
「オレとねーさん、恋人になったことなんか一度もないんだ。ねーさんにはただ一人の人がいて、それにオレも別にそういう意味でねーさんが好きだったわけじゃなかった。それがなんでこういうことになったかってことだけど、……ねーさんの恋人、海外協力隊に参加してカンボジアに行ったんだ」
「……」
 話の展開がコメントを選ぶものになり、男は相槌を打てなくなった。
 その表情を読んだ青年が首を振る。
「遠距離恋愛になって二人がぎくしゃくしたとか、オレが間に入ったとか、そういうことじゃねーぞ、誤解すんなよ。
 慎太郎さん……ねーさんの恋人の名前だけど……向こうに渡って半年くらいしたときに宗教がらみの紛争に巻き込まれて亡くなったって通知が来たんだよ。本当に唐突だった」

「……それは」
 思わぬ内容に男は我知らず目を見張っていた。
 その瞳の中で、青年は相変わらず静かに状況説明を続けている。

「遺体は見つからなくて、現場に残っていた服の切れ端が遺品代わりに送られてきた。ねーさんは半狂乱になって……暴れて暴れて、それで、最後には、声も立てずに泣いた……」
 もはや男は返す言葉を持たない。
「一人にしたら何をしでかすかわかんねーから、オレがねーさん連れて帰って泊めたんだ。……そのとき」
 青年はそこで口を閉じた。
「……あなたは、それで、彼女を慰めたんですね」
 するりと挟まれた男の言葉に、こくりと頷いて、彼はまた話を続けた。
「そのときだけだ。恋人を亡くした女の人にとっては一時の慰めなんて一回だけで充分。
 ……だけど、ようやく落ち着いてきたねーさんが、二ヶ月くらい経って、真剣な顔つきでオレを訪ねてきたんだ。どうしよう、子どもができたって」
 男には再び返す言葉がない。
「ねーさんは何度も謝ってた。ごめん、ごめんって。恋人でもない、まだ何の力もないオレを否応なしに父親にしてしまったことを謝ってた」
「生むと決めたのは彼女の方だったんですか」
 敢えて問いの角度を変えたのは、無意識のものだった。
 青年はゆっくりと首を振る。
「いや、オレが。ちゃんと父親になるから、生んでくれって頼んだ。どんなに不憫な生まれでも、生まれてくる前に死なせてしまうなんて絶対にだめだ。……直江もそう思わないか」

 縋るように問うてくる青年の澄んだ美しい瞳をまっすぐに受け止めながら、男はゆっくりと瞬いた。相手のけがれないまっすぐな眼差しに痛みをおぼえても、決して目を逸らそうとはせずに。

「私なら……自分の生まれも考え併せて、やめさせたでしょう。あなたにしてみれば冷たいとしか思えないでしょうけれど。
 私はあなたのように熱くない。純粋でもなくなってしまっている。たぶん、相手がどうしても生みたいと言わない限り、やめるように言ったでしょう」

 青年は怒るでも悲しむでもなく、静かにその言葉を受けた。

「……そっか。そうだよな。オレが青かったんだ。今になって思えば、こうして父一人子一人のかわいそうな子になってしまうぐらいだったら最初から……」

「いいえ」
 眉を寄せて俯くのを、けれど男は真摯な声でとどめた。

「いいえ。それでも、今ここに明ちゃんがいることが幸せだとは思いませんか。この子はこんなにも安らいでいる。幸せそうだとは思いませんか。そのとき生まずに済ます道を選んでいたら、この子はお父さんの腕を知らずに、生まれずに、済んでしまっていたんですよ。
 あなたの選択は決して間違っていない。間違っているのは私の方です。あなたは正しいんです」

 男は青年に負けないくらいに純粋で真摯な瞳をして、訴えた。

 この人の純粋な眼差しが、汚れた自分を目覚めさせてくれた。世間ずれした冷たい無関心の鎧は一瞬で砕かれて、心から溢れ出す愛おしさを教えてくれたのだ、彼が。

「……そうかな」
 青年はやがて、ぽつりと呟いた。
「そうです。それに、明ちゃんが生まれてこなかったら私はあなたたちと出会うことはなかった。きっと死ぬまで一人きりで生きたでしょう。あなたの選択が私にも幸せを与えてくれたんですよ」
 男は本当に幸せそうに笑んだ。
「……そうかな。そうだといいな。この子には幸せになってほしいんだ。かーさんもいない、とーさんも全然頼りにならないけど、直江がいてくれたらきっとこの子は幸せだ」
 その笑みが青年にも伝染してゆく。

 二人は、ようやく、幸せな笑顔を交わしたのだった。


「それで、明ちゃんのお母さんは今はどちらに?」
 しばらくして二人は話を再開した。
 男の問いに、青年は首を振る。そこに含まれた生死の確認に対してのものだ。
「別に、死んだわけじゃねーぜ。生きてるよ……きっとな」
「きっと?」
 微笑みの中に含まれた不思議な言葉に、男が首を傾げた。
「慎太郎さん、生きてるって情報がきたんだ。一ヶ月くらい前かな。紛争でうやむやになってた間に現地の人間に助けられていたみたいだって。長い間目を覚まさなくて身元がわからなかったんだけど、やっと体を起こせるようになって、最初にねーさんのことを思い出したんだ。
 ―――ねーさんは、行ったよ。カンボジアに。明を置いていくのをどんなに心残りにしてたか。それでも、そんな危ないところに赤ん坊連れで行くなんて言語道断だ。だから、オレが引き取った。籍も抜いた」

「だからこの子は、仰木明夜。オレのたった一人の娘だ」
 青年はそう言って、じっと男の顔を見た。
「……よく話してくれましたね」
 そこには最初から変わらない、優しくて温かな眼差しだけがある。

 不安と臆病さから湧き起こる不安に対して、そのたびに何度も相手の真意を見せられ、
 ―――とうとう青年は体の力を抜いた。

 そんな青年に、男も心からの笑顔を浮かべる。
 それからの会話はただ、打ち解けた温かさの中に進んでいった。

「とりあえず、簡単な事情はそういうことだ。……これでも、オレたちをここにおいてくれるのか?」
「もちろん。あなたと明ちゃんを連れていってしまうかもしれない誰かが、いないのだとわかって、私はほっとしているくらいですよ。ここに……一緒にいてください。お願いします」
「……うん。ありがとう」
「ありがとう、は私の台詞ですよ。嬉しい。早速明日、引っ越しをしましょうね」
「引っ越すほどの荷物なんかねーよ。なんにも。空っぽだ」
 自嘲気味に首を振る青年に、男はいいえとその手をとどめた。
「それでも、大事な思い出の一つ二つあるでしょう。その思い出に、最後の挨拶をしに行くんです。振り返って、大切にしまいこんで、そして前を向くために」
「……そうだな。うん。……直江が一緒に来てくれるんだったら、行く」
「もちろん一緒に行かせてください。あなたがいやと言ってもくっついて行かせてもらうつもりだったんですから。それに、明ちゃんを一人で抱っこしていくのは大変でしょう?
 ……そうだ、帰りにベビーカーを買って帰りましょう。他にもベッドとか衣類とか、色々揃えなければね」
 どこかうきうきしている男に、青年は泣きそうな顔をして瞳を見る。

「ね、家族って楽しそうでしょう―――?」
 片目を瞑って笑う男に、青年は泣き笑いの顔で頷いたのだった。




next : 9
back : 7
5/7
ようやく高耶さんの名前を知ることができた直江さんの巻でした。
そして、明ちゃんのお母さんについてのお話も明らかに……
(なぜこのシリーズを裏に置こうと思っていたのか、これでお察しいただけたことでしょう……)
明ちゃんのお母さんは綾子ねーさんでした。そして彼女は慎太郎さんを追ってカンボジアに行ってしまったのです。情熱の人。
(それにしても慎太郎さんびっくりでしょうね。知らない間に恋人が別の男とデキ婚……。もちろん日本を出るときには籍を抜いていますが)

さて、本当ならば503企画の「香水」を書くはずだったのですが、せっかくだしこちらの本編の流れに合わせてUpしようということで、こちらを先に更新しました。次回かその次くらいがUpされたら、香水の話を番外としてUpします!

今回の呟き:高耶さんの年齢を書き忘れた……
「この年で子持ち」とか「若くても立派な父親」とか描写していたのに、実際幾つなのかは書いていませんでした。次回あたりで書くようにします。

最後の呟き:カミソリ送らないでください……
お読みくださってありがとうございました。