baby,baby!―――出会い編



「私は、実父の顔を知らないんです」

 青年は男の台詞を聞いて目を丸くした。とんでもないことを聞いたために動きを忘れてしまっている状態である。
 相手のそんな様子に半ば苦笑気味ながら男は続けた。
「母はいわゆるシングルマザーで、私は最初から父親のいない子どもとして生まれたんですよ。直江は母の実家の姓です。それがなぜ橘になったかというのは、お察しのとおり、母の結婚に伴ってのものです。その時に私は姓名共に変更させられて、今の橘義明という名になったんですよ。それが中学に上がるときのことでした」
 そこまで言って、男は少し言葉を切った。
 話に青年がついてこられたか確認するように瞬いて、瞳を覗きこむ。
 青年は想像もしなかった話に半ば思考停止状態を呈していた。

「……まあ、簡単に言えば、そういうことです。私の名前が二つあることと、あなたには直江と呼んでほしいということだけわかってくだされば充分ですよ。―――ついてこられましたか?」
 呆けてしまっている青年に苦笑いして、男は首を傾げる。
 青年はそれでようやくハッと現実に戻ってきた様子で、きまり悪そうにこくこくと頷いた。

「ずいぶん驚いてくれましたね。そんなに意外でしたか」
 ふっと悪戯な笑みに切り替えて男が突っ込むと、青年は困ったような笑みで答える。
「だって……直江、すごく気がつくし優しいし、こんなに穏やかな顔して笑ってる。今の話聞いてたらグレてもおかしくなさそうなのに」
 その言葉に、男は表情を変化させた。

 例えるならば、はるか遠くにある何かを懐かしむような、そんな色に。

「……私がぐれずに済んだのだとすれば、それは祖父母のおかげでしょうね」
 歌うように呟く彼の眼差しがとても穏やかで、青年は少し驚いた。
「おじいさんたち?」
「ええ。先ほども言いましたが、私は直江の家で育てられました。母は仕事に生きている人でしたので、ほとんど家にはいませんで、私は祖父母に育てられたようなものです。祖父母は一人娘の生んだ子どもである私を生まれの事情にかかわらず大事にしてくれましたので、小学校の間はごく幸せに過ごしたと思います」
「へぇ……」
「けれど、中学に上がる少し前に、……直江の家は地元では資産家として知られていたのですが、事業での失敗がもとで莫大な借金を抱えることになりました。年老いた祖父母にはどうすることもできない額でした。かといって、キャリアウーマンとはいってもまだ若手に過ぎない母に返済できるものでもなかった。かなり追いつめられていたと思います。もう分別の付く年齢だった私ですから、大人たちの事情はだいたい理解できました。家はいつの間にか人手に渡り、明日にも出てゆかなければならない、という状況にまで追いこまれたころに―――
 ―――橘が現れたんです」
 男はそこで少し黙った。

 橘という男を憎んでいるのだろうかと青年は思ったが、そういう表情ではない。
 男はただ、そのときの複雑な状況と心境を思い出したのだ。

「橘は母の幼なじみでした。地元ではもともと直江と並び立つ名家でしたが、あちらは事業にも成功してますます栄えていました。そう、まるで両極端の道を行ったわけです。
 その橘が何を言い出したかというと、母との結婚と直江の家の建て直しの申し出でした。縁戚を結ぶことによって直江の家を丸ごと面倒看ようという豪気な申し出でしたが、直江の祖父母は大反対をしました。
当然と言えば当然です。橘は人間的にとても魅力のある人物でしたが、女性関係についても華やかで、当時すでに亡き妻や愛人の生んだ子どもが三人もいたんです。息子二人と娘が一人。そんな問題だらけの男のもとに大事な一人娘を、しかも借金のかたに売るなどということができるか!と。まぁ母は子持ちとはいえまだ一度も結婚はしていませんでしたし、相手は再婚です。娘可愛い両親にとっては到底受け入れられない話でした。
 けれど母は二つ返事で橘の申し出を受けました。彼女にとってはそれは別段いやなことではなく、むしろいろいろな意味で都合の良い夫だったんです。
 ……そのあたりが私には理解できなかった点なんですが、……橘も母も結婚後にも家の外に恋人を持っていました。隠すこともなく、いさかうこともなかった。―――そもそもあの二人に夫婦らしい関係があったのかどうか……」

「な、なんだそりゃ」
 訝るように首を傾げる男よりも、その目の前にいる青年の方がよほど驚いている。
「そんな夫婦なんてあるのか?じゃあなんで結婚なんか……」
 男の両親は、青年にも理解できない関係のようだ。

「まぁ、一種の契約だったんじゃないでしょうか。母は実家を救ってもらうために、義父は名目上の妻を得るために。
 けれど決してよそよそしい夫婦ではありませんでしたよ。幼なじみがそのままそこにいるような、ノリのいい二人でした。それぞれ独立した人間でありながら、家ではきちんと家庭を守っていた。そのくせ食事時の話題が新しい恋人の口説き方の相談だったりするから、子どもにはついていけない世界でした。―――尤も、橘の子どもたちは既にそんな父親に慣れきっているようで、あまり意に介していませんでしたが。
 ……まったく、よくぞ中学の多感な時期をあんな親のもとで乗り切ったものです」
「はぁ……」
 呆れ果てたというようなため息に、青年は返す言葉もない。

「まあ、そういうわけで私は中学を出るときについでに家も出てきたんですよ。もうあの壊れた家族には付き合いきれません。それ以来、こちらがこの家に住んでいることしかあちらは知らないはずです。送ったものが返送されてこないから生きてはいるだろう、ぐらいのものでしょう」

「……すごいな」
 青年は開いた口がふさがらない風で、かくかくと機械的に頷くような仕草を見せるだけだ。

「変わってるでしょう。だからというべきか何だか家族というものに夢が持てなくて、これまでずっと一人できました。空白の存在を知っていましたがそこを埋めてくれるような何ものにも出会えなかった。
 けれど……昨日あなたたちに出会って、とうとう見つけたんです。私の中に空いていた場所を埋めてくれるのはあなた達しかいない。
 ―――今この家がこんなにも温かで自然な空気を帯びていることが、その証明にはなりませんか?
 私では明ちゃんの親にはなれませんか。『母親』に、なれませんか」

 男は青年の瞳を見つめてゆっくりとかき口説いた。静かに、けれど揺るぎない声で。

「あなたたち二人が加わってこの家がどんなに変わったか、あなたにもわかるのではありませんか」
 青年は黒い瞳でじっと相手を見つめている。
「昨日出会ったばかりで唐突なのは承知しています。自分でも戸惑うほどです。
 ―――それでも、あなたと明ちゃんがいてくれないと私は寂しいんです。ここにいてほしい。今手を離してしまったらどんなに後悔するか知れません」

 男は本心からの思いで相手を―――二人を求めた。
 一方、彼の空洞にすっぽりとはまりこんでしまった二人は、既にその居心地のよさに酔って、そこから出たくないと思ってしまっている。迷惑を掛けていることは百も承知で、それでも離れがたいと思ってしまっているのだった。

「今はただここにいてください。判断するのはいつでもいい。
 ゆっくり考えてください。そして、できればイエスと言ってください」
 男は最後にそう言って、青年を覗き込みながらその頬に指先を滑らせた。

 そっと優しく……花びらでもなぞるように微かに触れていったその指の感触に、青年の鼓動がふと跳ねる。
 ほんの僅か、頬が上気する。
 それが何であるのか、今はまだ二人とも気づかない。

 青年は自分のそんな反応に内心で首を傾げつつ、目の前の男の深い色した瞳を見つめた。
「……直江」
 望まれた名を口にすると、相手は心底嬉しそうに微笑んだ。
「はい?」

「オレ……ここにいて、いいのか?」
 じっと見つめて揺れながら問う瞳に、男はとろけるような優しい眼差しを返す。
「いつまででもここにいてください。家族を形作る大切な要素の一つとして、あなたも私もそして明ちゃんも、掛け替えのない存在なんです」

 青年は、そんな男を泣きそうな瞳で見上げながら、ぽつりと呟く。

「オレ……身寄りが一人もいないんだぜ」
「私だって独りです」

「この年で子持ちなんだぜ」
「若くたって、あなたは立派なお父さんですよ」

「この子の母親はもういないし」
「私では―――だめですか。『母親』になることはできなくても、明ちゃんの親になることは、できませんか」

 一つ一つ落ちてゆく青年の不安に、男は根気良く一つ一つ答える。

 何度も繰り返して、とうとう青年の口が動きを止めたとき、男はもう一度問いかけた。
「ここにいてくれますか……?」

 青年は濡れた瞳でじっと相手を見つめ、そして―――こくん、と頷いた。
「……ここに、いる……」


「ありがとう―――」

 男の大きな手のひらが、青年の肩をそっと抱き寄せた。

 青年の膝には赤ん坊。
 男の腕の中に、青年。

 雛鳥、小鳥、親鳥。


 温かな一つの家族が生まれた瞬間だった。




next : 8
back : 6
5/2
とうとう家族を手に入れた直江さんの巻でした。(ってか、高耶さんの事情についての説明が無い!……それ以前に、高耶さんの名前がまだ出てない !? )

お読みくださってありがとうございました。