baby,baby!―――出会い編
やがて、コトコト煮込まれたシチューが食べ頃になり、ちょうど風呂から上がってきた男がリビングダイニングに充満したその匂いに嬉しそうな顔をしたとき、青年はすべての用意を調え終えて赤ん坊の相手をしていた。
「もうすっかりできあがったんですね。いい匂いだ。おなかが鳴りそうですよ」
男に気づいて赤ん坊ごとソファから立ち上がった青年は、おどけた調子で腹の上を撫でる様子に吹き出した。
「腹が鳴るなんて似合わなさすぎるぜ……こんないい男が」
なぁ?と言って赤ん坊を覗き込み、揺さぶってやると、相手は嬉しがって声を上げる。赤ん坊独特のあどけない声が響きわたって、無機質なリビングにふいに家庭的な温かさを添えた。
「かわいいものですね」
これまであまりにも知らなさすぎた、知ろうとしなさすぎたその温もりに触れ、男は一瞬胸を詰まらせた。
青年の腕の中ではしゃぐ小さな生き物は本来周りの大人に手の掛けさせることだらけでありながら、その実どんな大人にもない癒しの手を持っている。存在そのものがその周りにいる人間たちの心に大きな影響を与えてゆくのだ。
まだまともな言葉も紡げない、一人で動き回ることもできない、そんな幼い赤ん坊だが、彼女は確実にこの家を変えた。ここに住む男をも。
「赤ちゃんがこんなにもかわいいものだとは、思ったこともありませんでした」
まだ青年の胸にすっぽりと収まってしまう小さなその生き物に、男はそっと手を伸ばして、柔らかな細い髪に触れた。
「……うん。オレも明が生まれるまで思いもしなかった」
うーと言って男の長い指に興味を示している赤ん坊を少し上に持ち上げてやりながら、青年も頷く。
赤ん坊は身を屈めて覗き込んでくる男に興味津々で、一生懸命に手を伸ばしている。
「こんなに小さなお手手をして……」
懸命に空を掻く紅葉のような手にこわごわと自らの手のひらを寄せながら、男はこれまで感じたこともないような愛しさをおぼえていた。
赤ん坊の小さな指が、大きな手のひらを掻く。まだ各指先を自由に動かすことができないから、手のひら全体でぱたぱたと叩くようにして触れてくる。
「指貸してやって。握るのが好きなんだ」
青年の言葉に従って人差し指を赤ん坊の手のひらに触れさせると、彼女はその小さな小さな五本の指で男の長い指をぎゅっと掴んだ。手のひら全体を使ってぎゅうっと一生懸命に握ってくる。
その、赤ん坊独特の触れ方は、ダイレクトに男の心の中に入り込んで、彼を魂ごとしっかりと掴み取ってしまった。
「ほら、嬉しそうにしてる」
満足げに男の指をぎゅうぎゅう握りしめて遊ぶ赤ん坊の顔は、例えようもなく愛らしく、青年は目を細めて呟いた。
男は返す言葉すらなくただ赤ん坊の喜びようを見つめている。
そんな二人の様子を顔を寄せて見守っていた青年が、ふと目を伏せた。
「―――オレ、明のことこんなに可愛いと思ったの初めてなんだ。これまでは、ただ可哀想で……笑ってる顔見ても、あぁ何も知らないで笑ってる、なんて可哀想なんだろう、って……そう思うことしかできなかった」
青年は低く呟く。
男は青年の苦い告白を驚き半分、納得半分に聞いた。
青年にはかなり複雑な事情があることは最初の出会いの時点から察せられたことだ。だが、青年にとって赤ん坊が不憫な存在でしかなかったという台詞は、この愛らしい生き物を見た後の彼には、意外にしか思えなかったのである。
男は僅かに目を見張り、―――そして、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「シチューが冷めてしまいますね。先にごはんにしましょう」
敢えて何も追求せず、男は苦しげに眉を寄せていた青年にそんな言葉を投げかけた。
事情は後でゆっくり話しましょう。
青年は、ただ優しいだけではなくてこちらの心情を慮った男の瞳の色を見ると、ふ、と体の力を抜いた。
「……あぁ。こいつにもそろそろミルクをやらないとな。―――ほら、いつまで人の指で遊んでるんだ?放しなさい、明」
めっ、と赤ん坊の手を突っついて、興味の対象を自分の方に引き戻すと、青年は彼女を抱きなおしてキッチンスペースへと向かったのだった。
男二人+赤ん坊が囲んだ食卓は、その面子が昨日出会ったばかりであるとはとても見えない、和やかなものになった。まるで長い間そうして暮らしてきたかのような自然な『家族』ぶりであることに、男も青年もそれぞれの心の中で驚いていた。それを相手に告げることはまだできなかったのだが。
男は二人のいる空間の温かさを幸せに感じ、青年は昨日の無機質さを無くしたこの空間に自分たちが溶け込んでいることに驚き、そしておずおずとその優しいゆりかごに心を預け始めている。
―――二人がいてくれたら、ここは『家庭』になる。この上なく幸せで、きっと自分が長い間求め続けてきた温かさを、その家は持つだろう。欠けていた、探し続けていたピースは、この二人なのだ。たぶん間違いなく。彼がいて、小さな彼女がいて、そしてようやくこの家は『home』になるのだ。
―――この空間は昨日はあれほどに無機質でがらんとしていたのに、今こうして三人でテーブルを囲んでいると、まるで別の場所のように温かい。自分たち二人はたった一日のうちにこの家に馴染んでしまっている。甘えちゃいけないとわかっていながら、もうすっかり和んでしまった。
互いに不思議な思いを抱えながら、
男は青年のこしらえた料理に舌鼓を打ち、青年は昼間のできごとを語った。
「……あの」
そして、食器の片付けを終えてソファに掛け、食後のお茶が湯飲みに注がれたときまで、二人は何も事情を口にしなかった。
青年は腹を満たしてご機嫌の赤ん坊を膝の上に乗せてその髪を梳いてやっていたが、彼女がやがてすやすやと寝入るのを見守ってから、ようやく口を開いたのだった。
その指先は愛しげに小さな生き物の髪を撫でているが、隣に掛けた男を見上げる瞳には甘さはない。
男はその顔をじっと見つめ、出会ったときの恐慌状態の彼とは違う平常の彼の面を観察した。
顔立ちはシャープで、だから一見落ち着いた年齢に見えるけれど、よく見れば彼がまだ成人になるかならない若さであることがわかる。まだ堅くなりきらない顎のラインも、世の大人たちに見られる諦観した色が見えない瞳も、彼が 本当に若い父親なのだということを思わせた。
一方で、まだそんなにも若いのに、彼が浮かべる表情は年齢以上にしっかりしていた。彼を追いつめた事情は一日分のヒントから想像されるだけでも相当なものであろうと思われるから、彼はおそらく同年代の普通の青年たちが経るよりもずっと厳しい荒波を経験してきたのだろう。きっとそのために今ここにある彼の落ち着いた面が作られることになったのだ。
おそらく、彼には頼るべき肉親が無い。見ず知らずの人間に赤ん坊の母親になってもらおうとするほど追いつめられていたのだから、たとえどんな行き違いがあったにしても肉親がこの世にいるのなら形振り構わずに頼ってゆくはずだ。 それができないのなら、彼にはそもそも肉親が存在しないということになる。
つまり彼は……たった一人で赤ん坊を抱えてこの世界に佇んでいるのだ。
「その、なんでこういうことになってるかってことなんだけど……オレ……」
青年は何と言ってよいものかと言葉を選びかねている。
どこから説明すればよいのか、見当がつけられない様子を見ていた男が、やんわりと相手をとどめた。
「一度に説明するのは大変でしょう?私が今お聞きしたいことは、二つだけです。他は今でなくていい。少しずつ話してください」
「二つ……?」
頭の中で目まぐるしく浮かんでは却下される言葉に翻弄されていた青年は、相手の助け舟にほっと息をついた。
どうしてそこまで何も聞かずにいられるのだろうと不思議に思う一方で、自分でも整理のついていない様々な事柄を説明するすべを見い出せない今は、その心遣いが有り難かった。
持ち出された二つの質問とは一体何だろう、と首を傾げた彼に、男は告げる。
「そう、まずはあなたと赤ちゃんのお名前を教えてください。そして、もう一つは、これが肝心なんですが、引越しについてです」
名前のことは確かに最低限必要な情報だと青年は頷いた。
しかし、
「引越し……?」
今ひとつ飲み込めていない様子の彼に、男が殊更優しく微笑む。
「しばらくここにいてくださるって約束でしょう?それで、部屋の契約を切るとか、何か取りに返る荷物があるとか、そういう問題があると思って訊ねたんです。私は明日休みにしてきましたので、用事があれば一緒に行かせてください」
男の微笑みは前半がどこかおどけていて、そして後半は包み込むような温かいものだった。
「……んで」
瞳を見つめていた青年は、目を閉じて俯いた。
「はい?」
「なんで、そんなに優しくするんだ。初対面の人間なのに。オレみたいな厄介そうな奴になんでそんなに親切になれるんだよ……?」
青年は震えている。
差し伸べられた優しい手に縋りそうになって必死に踏みとどまろうとするように。その厚意を疑うわけではなく、迷惑を掛けてはいけないと自らを戒める。
「あなたたちを厄介だと思ったことはありませんよ。最初から。ただ気になったんです。見たときから気になっていたから、通り過ぎることができなかった。それで引き返してきたんです。
あなたが最初に声を掛けたのは私で、あなたに声を掛けたのも私が最初だった。それで充分だと思いませんか。私が通り過ぎていたらきっと縁はなかった。あなたがあの駅で立っていなければ縁はなかった。偶然がいくつも重なって出会ったのなら、理由なんてそれで充分です」
男はまっすぐに青年の瞳を見つめ、真剣にそう語った。
「そんなの……っ」
青年の瞳は揺れる。男の眼差しの中にある心からの求めを見い出し、その甘い申し出に何も考えないで飛び込んでしまいそうになる。
「そんなの……一方的に迷惑掛けるだけなのに……」
「―――ねぇ、私は」
必死に踏みとどまろうとする彼に、男が告げた。
「私は、家を捨ててきたんです」
「―――え?」
突然の話題に、青年の瞳が見開かれる。
男は青年の瞳を見つめたまま、けれど彼を通り抜けてどこか遠くを見るような眼差しで話を続けた。
「私は高校に上がるときに家を出て、それ以来一度も実家と連絡を取っていません。向こうからの便りは年に一度ばかりありますが、こちらからは一切返してないんです」
淡々とした口調で綴られる独白は、青年にとって意外でもあり納得するものでもあった。
―――この物柔らかな優しい男が家族と縁を切っているなんて。
―――あの寒々しかった家はこの男の孤独をそのまま表していたのか。
口を開くことはできずにただ瞳で問うてくる青年に、男は続けた。
「私の家は少々複雑な環境だったんです。さっき言ったように、私は橘義明という名前ですが、もともとは直江といいました。正確には直江信綱。生まれてから小学校を出るまで、私は直江でした」
この家の表札には橘と書かれている。男の現在の社会的身分が橘の名で通っていることは家の中にある物からも窺い知れたことだが、先ほど男が口にした『直江』の名にはそういう理由があったのか、と青年は目を見張る思いだった。
「それがなぜ橘になったのかということなんですが……」
男はそこで言葉を切って、くすりと笑った。
面白がるようで、そして苦いものを噛むように、男は笑う。
その次の台詞に、青年は今度こそ目を見開いた。
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4/30
明ちゃんに魂を抜かれる直江さんの巻でした。
お読みくださってありがとうございました。