baby,baby!―――出会い編
男が出かけていって、青年はすることがなくなってしまった。
冷蔵庫に入っていた材料で手早くこしらえた朝食は男の口に合ったようで、嬉しそうにその腕前を誉めながら舌鼓を打っていたことが青年を喜ばせた。
せめて一つでも役に立てることがあるなら、心苦しさが少しは軽減する。
青年はこの家においてもらえるのなら家事一般を引き受けようと決心していた。
外に出て働く程度のことはしなければ筋が通らないという思いは消すことができないのだが、赤ん坊を抱えている以上、それは不可能だ。それなら家の中のことをしよう。
当の赤ん坊は断続的に空腹や不快を訴えるほかは終始機嫌良く寝転がっていて、規則正しい食事さえ満足ゆけば彼女は至極おとなしい赤ん坊なのだということが青年にはようやく理解された。
生まれいでて四ヶ月ほどになる。もう首もすわって、そろそろむやみにぐずることもなくなる時期だ。
定まり始めた彼女の性格は、どうやら母親というよりも父親に似たようだ。あまり賑やかではなく、大人しく一人遊びしている方が性に合っている様子である。
食器を洗い終えてテーブルをきれいにし、とりあえず何もすることがなくなった青年は、赤ん坊のいるソファに移動して、いごいごと手足を動かして一人遊びしている彼女の脇に手を差し入れて抱き上げ、深く沈むその革の上に掛けた。
抱き上げられて父親の膝の上にちょこんと乗せられた赤ん坊は喜んできゃっきゃっと笑っている。小さな指が自分へと向かってくるのを愛しく思いながらその拳をそうっと握りしめると、相手は喜んで声を上げた。
いつもにも増して、可愛いと思った。
心に少しでも余裕ができるとこんなにも感じ方が違うのかと不思議に思う。
昨日まで二人で生きるか死ぬかという瀬戸際まで追いつめられていたのに、その不安がかりそめにしても和らいだ今は、ただ純粋に赤ん坊のことを思いやってやれる。
いとしくてならない。
たった一夜の結実は、自分の境遇も知らずただ無邪気に笑っている。
その笑顔に癒される。何の力もないのに、こんなにも大きな影響力を持っているのだ、この小さな生き物は。
母親はなく、孫を可愛がってくれる祖父母も持たず、ただここにあるのは若い何の力もない父親だけ。
昨日出会った優しい大人の男が今は唯一の拠り所なのだ。
赤ん坊を守ってくれるただ一人の保護者に、あの男はなってくれるという。
「……そんなに優しいと……本気にしちまうぞ」
この場にはいない彼に向かって呟き、青年は我が娘の頬をそっとつついた。
本気にして世話になってしまうのはいけない。今はその有り難い厚意に甘えてみてもいいかもしれないが、一日でも早く自立しなければ。
見ず知らずの他人でありながらここまでの親切を見せてくれた彼に、多大な負担を与えたくはないのだ。
事情も知らず笑っている赤ん坊を、青年はそっと、しかし強く抱きしめた。
「今だけ……今だけ、甘えさせてもらおう……」
くぐもった声が、赤ん坊の背に伏せられた顔からこぼれおちる。
体温の高い小さな体は、そんな父親の姿に不審そうにじたばたするが、若い青年はしばしじっとそのままにぬくもりに安らいだ。
一方の男はといえば。
出社したものの家に残してきた二人が気になって休憩時間などはすっかりそわそわしてしまっている男を見て、周りの人間たちは不思議そうである。
「今日、何かあるんですか?さきほどから時計を気になさっているようですが」
昼休みになってお茶を汲んできてくれた一人の部下が男に尋ねると、男はおやという顔をして彼を見上げた。
「そんなにそわそわしていましたか。―――いえ、家に残してきた者が気になって」
いつもの穏やかな笑みをたたえた彼がそう答えると、相手は驚いた顔になった。
「家にって……係長はおひとりで住んでいらっしゃるんじゃありませんでしたか」
思わずそう呟いてしまってから、彼はプライベートに関わることを訊くという失態に顔をこわばらせた。
「ええ、まあね」
秘密めいた相づちで語尾を濁した相手はしかし怒っているふうではない。
その微笑みは何だかとても和んでいて、部下の男もいつの間にかつられて笑顔になってゆく。
これまでも柔和で穏やかな笑みを絶やさない上司だったが、今日の彼は以前にも増して優しい表情をしている。そして同時に、家が気になって仕方ないという風なそわそわした雰囲気も。
家にいるその誰かを、とても好いていて、だから気になるのだなと部下は納得した。
この課には女性の社員がいない。しかし他の課の女性社員の間でひそかに熱烈に狙われていたその男のこんな姿を彼女らが見たら、大変な騒ぎになっただろう、と彼はこの課に女子社員がいなかったことに胸をなで下ろしたのだった。
―――その視線の先で、当の上司はまた時計に目をやっている。
そして待ちかねた定時、彼はおそらく入社以来初めてという早い退社時刻をカードに刻み、そのうえ明日の有給休暇を申請して帰途についたのだった。
彼と出会ったあの駅の出口を足早に抜けて、男は自宅へと急ぐ。
六階四号室の呼び鈴を押すと、しばしの間があった。
もしや出ていってしまったのだろうか、と顔をこわばらせた男だったが、やがて中でぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえ、「はいはい!」と元気よく応答が返ると、ほっと胸をなで下ろした。
「私です。ただいま帰りました」
答えたのとほとんど同時に扉が開かれ、おたまを片手に佇む青年が現れた。
「……おかえり。今夕飯作ってたとこ」
何と返事をしたものかと一瞬躊躇う様子の彼だったが、一拍をおいてから小さな声でそう言って男を見上げた。
「よかった。あなたたちがいなくなっていたらどうしようかと思った」
男はそんな青年にふわりと微笑んで、髪にそっと手のひらをのせた。ぱふぱふ、と軽く叩いてから、彼はようやく玄関に上がり、距離が近づいたことに戸惑っているらしい青年の見上げてくる眼差しの愛おしさに、その細い体を抱きしめた。
「えっ……」
青年はそんなスキンシップに慣れていない。
男にとっては軽いハグのつもりだったのだが、青年はびっくりして堅くなった。
「な、何……」
「あなたがここにいてくれて嬉しいんですよ。それから、一日家でご苦労様でした」
ぎゅっとその背を抱きしめると、青年は少し慣れてきた様子で体の力を抜いた。
それから、腕を離そうとしない男にやがて焦れて、
「背中!おたまについてるのが付くぞ」
と脅したのだった。
「おやおや。それは大変だ。……ところで、今夜は何を作ってくれたんですか?楽しみです。今朝のオムライスは本当に美味しかった」
くすりと笑って体を離した男は、キッチンスペースに目をやって尋ねた。
コンロには鍋が乗っていて、ぐつぐつと湯気をたてている。
「あれはトマトシチューだ。あと、野菜茹でてサラダにする予定」
青年は誉められてくすぐったそうにしながらも嬉しそうな顔をした。
「シチューとはまた、手間のかかるものを作ってくれたんですね。楽しみだ」
その答えに男も嬉しそうである。
「先に風呂入ってきたらいい。もう少し煮込むから」
さっそくコンロに近寄り、蓋の乗った鍋を興味深げに覗き込む彼に、思わず笑いながら青年がその背を叩いた。
男は湯気に閉口しながら頷き、
「そうですね。ではお先に失礼します」
「失礼しますって……ここはあんたん家だろ。橘さんていうんだっけ」
軽く頭を下げるようにして言った男に、青年が苦笑する。そして、実のところ自分たちがまだ名前すら知り合っていないということに思い当たり、家の中の物品から知ったその姓を不思議な気持ちで呼んだ。
ところが相手は首を振る。
「ああ、そのことなんですが、私のことは直江と呼んでください。事情は後で話します」
「?わかった」
深刻そうな様子は無いが、何か事情があるらしい彼に、青年は首を傾げながらも頷いた。
ソファの上では、大人たちの遣り取りも知らず、赤ん坊が眠っている。
天使のような愛らしさをたたえた柔らかな頬を、浴室へ向かう男を見送った青年が覗き込んで、とろけるような優しい笑みとともにそっと突ついたことを、他の誰も知らない。
聖母子像に似たその一対は、思いがけず与えられた優しいゆりかごの中で、しばし、たゆたう―――。
next : 6
back : 4
4/27
すっかり主夫と化している高耶さんと、新婚の夫の如きそわそわぶりを披露する直江さんの巻でした。
お読みくださってありがとうございました。