baby,baby!―――出会い編
翌日は晴天だった。
男は手早く洗濯物を干しながら、そろそろ出かけましょうかと青年に声を掛けた。
「明の支度ができたら行こう」
青年は赤ん坊のおむつを取り替えていたが、顔を上げて頷いた。
ピッとおむつの最後を留め付けてから青年は赤ん坊のおくるみを整えてやり、機嫌良くあーうーと声を上げている彼女を抱き上げた。
「―――支度はいいですか?」
モスグリーンのスラックスにライムのシャツを合わせてベージュの上着を羽織った休日スタイルの男が顔を出して問うと、青年はそのラフな出で立ちでもいい男ぶりを下げていない男に思わずため息をついた。
「どうかしましたか?」
相手は不思議そうに首を傾げている。その仕草すらも嫌みのない爽やかな男ぶりで、青年は重ねてうなだれた。
「……なんでこんな男の隣にいるのがオレたちなんだろ」
小さな呟きは半ばぼやきに近い。
目の覚めるような美女を連れていても何らおかしくないような男なのに、どうして子連れの自分を家に引き留めるのだろう、と青年は深いため息をつくのだった。
まさか男相手に恋をするような趣味を持ち合わせているとも思えない。そもそもそんなそぶりは一度も見せなかったのだから。
けれど、それならばなぜ、自分たちなのだろう。彼の心に空いた空白を埋めるものは、本当に自分たちなのだろうか。明はたしかに可愛いけれど、赤ん坊は可愛いだけのものではない。食事にしても排泄にしても、すべてに手が掛かる生き物だ。そんなものをわざわざ引き取ろうというその意志は、一体どこからくるのだろう。
……同情?
思い浮かんだ言葉を、青年は鋭く噛み締めた。
確かに今の自分たちには優しい手が必要だ。それなくしてはまともに生きてゆけないと思う。縋りたいほど必要としている。
けれど。
この優しい男が同情して自分たちを引き取ろうとしているのだとしたら、と思うと……それはなぜだか哀しかった。他に理由などありえないのに。それでもなぜか、もっと別の理由が欲しかった。同情ではない何かの感情が。
「……さん。高耶さん?」
肩を揺さぶられて青年が顔を上げると、うなだれてしまった相手を不審に思って男が覗き込んでいた。
その綺麗な鳶色の瞳が、まっすぐに青年を見ている。そこに浮かんでいるのは、優しい光と心配そうな色だった。青年が生きてきた中で誰も見せたことのない、まっすぐで透き通った気遣いの色。
憐れみはそこにはなかった。ただ、小さな生き物を見守るような愛しげな眼差しがあった。
「どうしたんですか?もしかして具合が良くないんですか。疲れているのなら、日を改めましょう」
大きな手のひらが青年の額に触れる。狭いわけではない額をすっぽりと覆ってしまうほど大きい手が、熱はないようですねと呟いた後に前髪を押し上げた。
「……そんなに苦しそうな顔をしないで。今すぐに心の整理をつけろと言った私が性急でしたね。
いいから今日は家にいましょう。何もしないで、ただぼおっとして過ごしましょう」
前髪を上げてしまうと、青年の揺れる瞳がまっすぐに飛び込んできた。男はそれを受けて考えを改めた様子だった。
驚いたのは青年である。
「えっ、そうじゃなくて……いいから、引っ越しはいいんだ。行こう」
「『は』ってことは他になにかあるんですね?」
「違ぇよ!いいから、行くぞ!」
「待ってください、高耶さん!」
「どうでもいいだろそんなこと」
男の言葉に首を振り、青年は勢いよく足を踏み出した。途端に、腕の中の赤ん坊が大声を上げる。急に動いたので驚いた様子だった。
「め、めい!?」
「明ちゃん!」
火がついたように泣き出した赤ん坊に、男二人は必死になった。
青年は一生懸命に彼女を揺すぶり、男は小さな手に指を与えて遊ばせる。
何とかして泣きやませようと努力を重ねる二人は、やがて同時に吹き出した。
「おっかしー!直江が慌ててる」
「あなたこそすごい顔してますよ」
二人は互いに笑い合って、それから顔を見合わせた。
「……行こっか」
青年はようやくおさまってきた赤ん坊をそっと揺すぶりながら、男を見上げる。
落ちてきた眼差しはとても温かだった。
家具というもののほとんどないその安アパートに、三人は別れを告げた。
持ち出すものといっては、赤ん坊の母子手帳とアルバム。他にはほ乳びんだけだ。
あまりの殺風景さに目を伏せる青年を、男は黙ってその背を叩くことで慰めた。
「そこに明ちゃんのお母さんも写っているんですか」
大事そうにアルバムを持ち出した青年に、男が尋ねた。
現像を頼んだ際におまけで貰ったらしい小さなそれに、青年のこれまでの人生の中で幸せだった思い出が詰まっているのだろう。
「うん。写ってる。慎太郎さんもいるぜ。三人いたころの写真だ」
青年はすり切れた畳に上がり、その小さな冊子を広げて説明を始めた。
「最初のこれが、東京に出てきたときに撮ったやつ。東京駅は広くて迷子になったな。ようやくねーさんと慎太郎さんに見つけて貰って、そのとき撮った。ちょっと疲れた顔してるだろ」
写真の中の青年は、三つほど年上と見える美人に抱きつかれて困ったような顔をして笑っている。二人の姿はたしかに仲の良い姉弟だ。弟を可愛がりつつも甘えてみる姉と、しょうがないなぁという顔で笑う弟。
幸せそうだ。
「で、この先はけっこう飛び飛びだな。たまにねーさん達に誘ってもらって出かけたときのとか」
写真はどれも、明るかった。青年の顔立ちはやはり今とは違う。まだ子どもの側にいた彼は、年相応の幼さを覗かせていた。
「……これが、明が生まれるちょっと前」
やがて、写真の中の青年の顔つきが変わった。病院の看護婦にでも撮ってもらったものか、青年と女性が二人で写っているその写真には、責任を負った大人の側に移った彼がいる。
白いベッドに上半身を起こした女性と、ベッドの脇にスツールを引いて腰掛けた青年。
二人の間に夫婦らしい甘さはなく、ただ身を寄せ合う小さな動物のような共同体が見えた。
「綺麗な方ですね」
男が、ぽつりと呟いた。
「ん……そうだな。明はかーさんに似たらいいのにな。美人になるぞ」
「あなたに似て可愛いと思いますよ、私は」
「な、何言ってんだ!もう行くぞ」
青年はにこりと細められた瞳に心臓が跳ねるのを感じた。そして慌てて男から距離を取る。
「おやおや、逃げなくても何もしませんよ」
男は感電したように飛びすさった相手にくすくすと笑い、青年の腕に抱かれた赤ん坊の頬をむにっとつついた。赤ん坊は不思議そうに目をぱちぱちさせて男を見ている。
「からかうな!」
青年は真っ赤になって男を睨み付けた。
睨むと言ってもむしろ子猫が毛を逆立てているような可愛いものだったのだが。
「からかってなんかいませんてば。明ちゃんはお父さんにそっくりで可愛いですよね」
この綺麗な黒いおめめも、ぷにぷにしたほっぺも。
さらさらした黒い髪を梳きながら、男は愛しげに小さな赤ん坊を見つめた。
赤ん坊は相手に興味を示してしきりに手を伸ばしている。
「お父さんにそっくり、はともかく、可愛いは変だろ」
青年は赤い顔のまま唸った。
「両方とも事実なんだからいいでしょう?明ちゃんはお父さんにそっくりだし、とても可愛い」
「だから、その二つを並べて言うの止せよな……」
終わらないやりとりの下では、男の指を捕まえた赤ん坊が、あーと声を上げて嬉しそうに笑っている。
「……明ちゃんを抱っこしてもいいですか?」
赤ん坊が甘えてくる気配に耐えきれず、男は青年に許しを乞うた。
「いいよ。気に入られてるな」
赤ん坊は男の手に抱き取られ、きゃっきゃっと声を上げている。
「……あなたも私のことを気に入ってくれてる?」
慣れない手つきながら赤ん坊を腕に納めた男が、ふと青年に問うた。
「……」
「明ちゃんは私に甘えてくれるけれど、あなたは?私に甘えてくれないの?」
男の眼差しは柔らかで優しくて、そして真剣だった。
「……オレは」
青年はその眼差しに絡め取られて身動きを忘れた。
「オレは……」
「あなたにだって私は甘えてほしい。甘やかしたいんです。……あなたは私のことを気に入ってくれていますか?」
青年はやがて、小さな声で呟いた。
「……よ」
「え?」
「オレだって、もうとっくに直江に甘えてるよ……!」
赤い顔のままやけくそ気味に叫ばれた言葉が、男を笑顔にした。
[出会い編 終]
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5/14
可愛い高耶さんをからかう直江さんの巻でした。
呟き:高耶さんの年齢を今回も書き忘れた……
お読みくださってありがとうございました。