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次兄の台詞の意味が脳で処理された瞬間、弟は瞬きも呼吸も忘れ、殆ど凍りつくほどの衝撃を受けていた。
「両親を、同じく……?」
何度も台詞の意味を量り、どう考えても言葉どおりの意味であると理解した彼は、やっとのことで次の言葉を発したが、それは兄の台詞の鸚鵡返しにしかならなかった。
時間が止まったようなこちら側と対照的に、電話の向こうの兄は至って朗らかに笑い声を上げ、
「何だ、知らないのか?おまえの父親はうちの父だ。だから、宏明はおまえにとって唯一の実弟というわけだ」
次兄らしいのんびりとした口調で紡がれた言葉は、しかし、刃の如く鋭い事実を弟の胸に打ち込んだ。
何の心の準備もなしに、夢にも思わなかった事情を聞かされた弟は、殆ど子機を取り落としそうになった。
「そんな……俺には父親はいないと」
血の気が引いたその顔には、自分に息子がいるかもしれないと聞かされた時にすら見ることのできなかった表情が浮かんでいる。
夫婦らしい関係があったのかどうかも疑わしいと捉えていた両親が、実は本当に自分の二親であるなどと。
そもそも直江と橘は、地元では名家の名を二分する、殆ど敵対勢力に近いもの同士であったはずだ。その跡取り同士がまさか子を成すなど……
そこまで考えて、男はハッと瞬きをした。
そんな間柄だから結婚できなかったのか。だから、継ぐ家が無くなったときに初めて母は橘へ嫁ぐことができたのか。
男の想像を肯定するように、兄は言葉を続けた。
「あの二人が長い付き合いなのは知っているだろう?二人とも家の跡取りだから結婚はできなかったが、母さんは他の男の子を産む気はないと言って、一人でおまえを産んだんだそうだ」
「でも……俺は父さんには全然似ていないのに」
弟は兄の語った事情を九割方受け入れつつも、未だ解消されない疑問を口にした。
あの母が好きでもない行きずりの男の子を産むとは考えられなかった。だから、もしかしたらその男は母と付き合いが続いているかもしれないと考えたことがあった。
物心ついて以来、自分は母の周囲に現れる男たちをいつも観察して、自分の父親である可能性を見積もっていた。
橘の父のことも少し疑ってみたが、髪の色も目の色も、体格も性格も、何一つ自分との共通点を見出すことはできなかったから、違うのだろうと思っていた。
「何一つ……似ていない」
呟くような弟の台詞に、兄は呆れた声で返した。
「おまえね、似ていない親兄弟なんて世の中に山といるだろうが。……それでもと言うなら、手を見てみろ」
受話器の向こうから聞こえてきた言葉を受けて、弟は机に突いていた右手を胸のあたりまで持ち上げた。
手のひらを見ても、ひっくり返して甲を見ても、何の変哲もないただの右手だ。長身に見合った大きな手で、指よりも手のひらの方が長い。
「手がどうしました?」
疑問を口にしながら指先に視線を落として、ああ爪が伸びてきたなと思ったとき、ふと何かが脳裏をよぎった。
自分の指先には縦長の楕円形をした、小ぶりな爪。
母は横に長い大きな爪をしていて、強い色のマニキュアは悪目立ちするからと、いつもヌーディカラーを選んでいた。
……これは誰の爪だ?
彼の頭に閃いた疑問は、兄の次の台詞で氷解した。
「誰もまじまじ観察しやしないが、おまえの指先は父さんそっくりだぞ。足もな。今度見比べてみるといい」
弟は言葉もなく、自分の指先を凝視している。
そんな情景を知ってか知らずか、電話の向こうの兄は弟の返事を待たずに言葉を続けた。
「それからおまえの名前、うちに来るときに改名したろう?あれはおまえが生まれたときに父さんと母さんとで決めた名前だ。直江の家では使われなかったが、おまえは生まれたときから義明だったんだぞ。
あのとき慌てて考えた間に合わせの名前なんかではない。直江の家と縁を切るために名前を変えたわけでもない。
おまえは生まれたときから義明だった」
父とよく似た兄の声には、温かな響きがこめられている。母親は違っても、自分たちは兄弟なのだと。同じ父を持つ、兄と弟なのだと。
「そんな、こと……だれも…… 一言も……」
正体のわからない何かで胸が詰まり、男は喉元を押さえるようにして声を絞り出した。
やれやれ、と電話の向こうで兄が笑う。
「母さんはおまえが成人したら全部話す気でいたらしいが、おまえときたら、中学を出ると同時に飛び出して行くんだからな。どれだけ俺たちが心配したと思う?」
今は電話越しの会話だからどうしようもないが、もし互いが目の前にいたなら、きっと兄は弟の首を引き寄せて髪をぐしゃぐしゃにしていただろう。子どもの頃のように。
「……申し訳ありません。俺は、何も気づかなくて」
ずっと見過ごしてきた家族の想いが胸に浸透していって、その温かさに彼は声を詰まらせている。高耶と明夜に出会うまで家族に何の希望も持っていなかった彼にとって、初めてとも思える温もりだった。
そんな弟の様子に、電話越しに伝わってくる空気感から想像がついている兄は、殊更あっさりと話題を変えた。
「まあいいさ。それより今は宏明だ。何を間違ってお前が父親だと思ったりしたんだか……そんなところまでおまえにそっくりだな」
「笑い事ではありませんよ。その宏明は昨日うちを訪ねてきたあと、そちらへ戻っていないのでしょう?」
からからと笑いながら紡がれた言葉を受け、弟は忽ち顔を上げた。今日初めて知った末弟という存在に対して、早くも情愛に近いものをおぼえているのか、その口調は忙しさを隠せない。
「ああ。だが、おまえを訪ねたなら近くにいるんじゃないか?ちょっと交番へ行って尋ねてみてくれ。俺によく似た子どもを見かけませんでしたかと」
電話の向こうの次兄はあくまでのんびりとしている。
あまりにも鷹揚に構えた態度に、やっぱりついていけない、と内心溜め息をつく弟だった。これが橘家の人間の特徴だ。放任主義というより無関心の域ではないかと疑ってしまう。
普通なら中学生が県外へ行ったきり一晩戻ってこないとなれば、家族は血眼になってその行方を追い求めるはずだろう。
「そんな悠長な!まだ子どもですよ?何かあったらどうするんです !? 」
全く変わっていない橘流の対処に、元末っ子は噛み付いた。―――が、
「と言うが、おまえがうちを出たのと同じ歳だぞ」
電話の向こうでは兄が含み笑いをしながらこう反してくる。
ぐうの音も出ない弟に、兄は続けた。
「わが身を省みてみろ。おまえならどうする?」
「……たぶん、俺に会うまで帰らないでしょう」
「だから巡査に訊いてみろと言うんだ」
「……はい、そうします」
しかし、交番で訊ねるまでもなかった。
義明の顔をよく知っている近所の人々が、散歩の途中で見かけたそっくりな少年の目撃情報を次々と寄せてくれたのだ。
少年は、公園のベンチに座っているところを兄に発見された。
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10/02/04