images by NORI's!baby,baby! ... "unexpected visitors"
知育玩具で遊ぶ母子をリビングに残し、男は子機を手に寝室へと向かった。
デスクの上の時計に目をやれば、既に九時を回っている。悶々とした一夜は永遠に明けないのではないかと思うほどに長かったが、子どもの母親の訪問を受けてからの数時間は瞬く間に過ぎ去っていた。
子どもの明るい笑い声が弾けるのを背中に聞きながら、男は十六年ものあいだ一度も押すことのなかった番号をプッシュし始めた。
最初のゼロを押すと、自然に残りの数字が記憶に甦ってくる。既に人生の半分以上を離れて過ごしたというのに、最初の半分で得た記憶とはこれほど根強いものなのか。
他人事のように考えていると、電話機の向こうの呼び出し音が途絶えた。
「―――もしもし、橘でございます」
受話器から聞こえてきた声は、実に十六年ぶりの母のものだった。一瞬、眩暈にも似た感覚に襲われながら、男は言葉を紡ぎだした。
「ご無沙汰しています。義明です」
電話の向こうで一瞬息を飲む気配があってから、相手は溜め息と共に呟いた。
「ああ、義明……」
すると電話の向こうでは複数の声が入り混じってがやがやと俄かに騒がしくなった。
『義明だって !? 』『本当に !? 』『義明が……』
「―――本当に義明か !? 」
何も言えなくなった母に代わって電話口に出たのは次兄のようだ。生真面目な長兄と比べてのんびりとした雰囲気が勝る話し方をする兄だが、さすがに今は語尾が上ずっている。
「義弘兄さん?長くご無沙汰して申し訳ありませんでした。義明です」
遅く兄弟に加わった末っ子は、ほんの四五年しか共に過ごしてこなかった兄に、電話機を挟んで軽く頭を下げていた。
「本当におまえなんだな……」
父親や長兄と似ていて聞き分けられないとの評が多い自分の声を過たず聞き分けたことで、次兄は電話の向こうにいるのが確かに弟だと信じたようだ。
彼から見れば、弟を名乗る男の声音が自分の知るものよりも随分低く成長していることが驚きだった。
「もう声だけではわからんな。あの頃は宏明みたいな声をしていたのに」
半分独り言のように呟いたのを、弟は聞き逃さなかった。
「宏明?やっぱりいるんですね。その宏明というのは俺の弟だそうですが、いつ生まれたんですか?今年十五だとか」
俄かに早口になって問い質すのに、兄はやや面食らって、
「ああそうだが、なぜおまえがあいつのことを知っている?誰も報せていないはずだが」
と電話機の向こうで顎を撫でているようだ。
「そう名乗る少年が昨日うちに来たそうです。俺はまだ帰っていなかったので会ってはいませんが。その子は本当に俺の弟なんですね?」
弟が僅かに苛立ちを含んだ声で続けると、兄はぽんと膝を打って声のトーンを上げた。
「おまえのところに行ったのか!急に姿が見えなくなったものだから、皆であちこち尋ねていたんだ。そうか、おまえのところになぁ」
『義明のところに !? 』『どうして突然そんな』
電話の向こうでは会話を漏れ聞いた家族ががやがやと騒いでいる。
義明はなぜかしみじみと呟いている次兄に、追及を続けた。
「昨日の夕方にうちに来たそうですが、それ以降のことは知りません。ところで本当に弟なんですね?」
少年の行方よりも重要な問題がある彼は、ほとんど三度目になる問いを発した。
「何度も訊かなくても、そうだといったろう。うちの末弟だ。おまえが家を出てから生まれた。その下にはいないぞ、念のため言っておくが」
次兄は何故弟がそのことにここまで固執するのか不思議に思いながらも、律儀に答えを返した。
「わかりました。でもまだ訊きますが、その子は母と橘の父の間の子に間違いはありませんね?お二人の子なんですね?俺の子だという話は間違いなんですね?」
兄の返事に家族の命運が掛かっている弟は、強く目を瞑って相手の声を待った。
ほんの一瞬の後に、次兄は、声を聞いただけでどんな表情をしているかがわかる、呆れたような声で応酬した。
「何だと?おまえの子?どこからそんな話になったんだ」
この兄にとって、宏明が義明の息子だなどという説は笑い話にもならないレベルの与太話なのだと、弟は知った。
義明は無意識のうちに息を止めていた肺をゆっくりと弛緩させ、新しい空気を吸い込むと、天に感謝を捧げたいほどの思いで言葉を返した。
「その宏明がそう言ったんだそうですよ。ですが、それは根も葉もない勘違いということですね?」
「ああ、宏明は母さんの生んだ子だし、勿論父親はうちの父だ。おまえの子どもの頃にそっくりだぞ。さすがに血は争えないな」
問題の説がただの勘違いだと知ってほっとしたのもつかの間、またもや不可解な言い回しを耳にして、義明の眉間には再び深い皺が刻まれた。
「……血は争えないって、何です?俺の子ではないんでしょう?ならどうして」
まさかまだほかに何か爆弾発言が控えているのではないだろうなと戦々恐々しながら問いかけると、次兄は朗らかに笑って続けた。
「おまえの子なわけがないだろう。だが、両親を同じくする弟だから、恐ろしいくらい似てるという話だ」
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10/01/15