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 早朝、リビングのソファには、大きな影と小さな影があった。

 姿を消した伴侶を想い沈み込む男の隣で、少し前に目を覚ました幼い娘は何かを察してでもいるのか、愚図りもせず黙って寄り添っている。

 やがて遅い冬の陽が上り始め、皮肉なほど明るい光がリビングに差し込んだ頃に、チャイムが鳴った。

「―――高耶さん !? 」

 一縷の望みを抱いて男が受話器に飛びつくと、モニタの中には見知らぬ女性がいた。
 髪は短く切られ、化粧っけもあまりないが、顔立ちの整った美人である。
 どこかで見たことがある顔だと記憶を手繰っていると、彼女はやや堅く強張っていた口を開いた。

「朝早くから突然お邪魔してごめんなさい。娘に会いに来ました。曽根綾子です」




「すみません。散らかっていますが、どうぞ」
 玄関の扉を開けると、彼女は家の中の様子になど目もくれずに、男の足元にぴったりとくっついている子どもに釘付けになった。

「めい……」

 子どもは見知らぬ人間に凝視されて戸惑った様子ながらも、男の脚の後ろから顔を覗かせて、こわがるそぶりもなく見返している。

「こんなに大きくなって……」

 綾子の瞳からはみるみる涙が溢れて頬を伝っていった。
 その様子を見ていた男は、脚にくっついている子どもを抱き上げ、母親に差し出した。

「抱いてあげてください」
「……いいんですか?」
「勿論です。メイちゃんもお母さんに会えて嬉しいはずです」
「ありがとう」

 綾子は恐る恐るといった様子で手を伸ばし、我が子を抱き取った。
 別れた時よりもずっと重みを増し、しっかりと発達した体を抱きしめ、言葉も忘れて佇むのを置いて、男はキッチンへと姿を消した。

 やかんを火にかけ、湯を沸かし、紅茶の一式を用意する間ずっと、男は親子の邪魔をしなかった。


 ―――伴侶が姿を消した翌日に、娘の生みの母親が訪ねてくるとは、何という皮肉な偶然だろう。
 彼が子どもを置いていったのは、戻ってくるつもりがあるからだと思っていた。彼との絆はまだ断ち切られてはいないのだと。
 けれど今、子どもは母親の腕の中にいる。子どもは決して自分のものではなくて、彼と彼女に属するものなのだと思い知らされた。
 あなたと俺を結んでいた絆はもう、こんなにも儚い。


 やがて、抱擁に飽きたらしい子どもが『なー』と自分を呼ぶのを聞いて、男は胸を詰まらせた。



「お茶を入れましたので、どうぞ」
 男は盆を手にリビングへ戻り、立ったまま子どもを抱きしめていた綾子にソファをすすめた。
 彼女が子どもを床に下ろすと、子どもはぽてぽてと駆けて再び男の足にくっついた。

「明はあなたが大好きなんですね」

 本物の親子にしか見えない二人を見て、綾子が鼻を啜り上げる。
 男も、まっすぐに自分のもとへ戻ってきた娘の姿に胸の痛むほどの喜びを覚えていた。

「ええ、私もメイちゃんが大好きです」


 男がソファに掛けると、子どもは慣れた様子でその膝に上がりこむ。
 男は均等な濃さになるように交互に注ぎ入れた紅茶の一方を綾子に勧め、自らのカップを手に取った。
 綾子に勧めた客用のカップとは違い、家人用のマグカップにはまだ余裕がある。彼はそのスペースに牛乳をたっぷりと注ぎ入れ、一口飲んでみて温度を確認すると、膝の上でおとなしく待っていた子どもに与えた。

「もう色々なものを食べられるんですね」

 離乳食を始めているのだと察した母親がため息混じりに呟くと、男は目尻だけで微笑んだ。

「ええ。好き嫌いもあまりなくて、よく食べてくれますよ。とってもいい子です」
「そうですか」

 母親は目を細めて我が子の成長ぶりを見守っている。放っておいたら一昼夜でもそうして見つめ続けそうな彼女を、男は遠慮がちに遮った。

「綾子さんも、冷めないうちにどうぞ」
「あ、いただきます」

 綾子がカップに口をつけると、男は子どもが飲むのに飽きたマグを手に取り、残りを飲み始めた。その仕草はとても自然で、それが彼らの日常であることを示している。
 常に子どもを中心にした、本当の親子そのものの光景。
 男が伴侶の連れ子を心から慈しんでいること、そしてその必要条件として当然に成り立っているはずのこと―――すなわち、彼が伴侶をこの上なく愛しているということを、別れた母親は確信をもって理解した。


 綾子がカップをソーサーにコトリと置いたのをきっかけに、男は次の言葉を紡いだ。


「それで……折角訪ねていらしたのに申し訳ないのですが、高耶さんは不在なんです」
「知っています。というか、あの子は私のところにいます」
「え !? 」

 綾子は居住まいを正して、動揺する男の目をまっすぐに見た。

「昨日、以前の住所を訪ねて初めて、あの子が引っ越したことを知りました。行き先もわからなくて駅に戻ったら、あの子が来たんです。驚きました。虫の知らせみたいなものでも感じたのかと思って。
 でも、一目見てわかりました。あの子が駅に来たのは私を迎えに来たわけではないって。
 あの子はこちらを飛び出したんですね」

「……はい、お恥ずかしい話です。私の家のごたごたに巻き込んでしまって」

 綾子の簡潔な説明に男は頷き、眉のあたりを曇らせた。


「あの子から話は聞きました。でも、あの子の話だけを聞いても本当のことはわからないと思って、朝早くから失礼とは承知で伺ったんです」
「そうでしたか。彼は……落ち着きましたか?」

 無意識のうちに額を覆い、俯き加減になっていた男は、伴侶のことを問い掛けるときだけ顔を上げた。
 深く傷ついた相手を思いやり、自らの過ちを痛切に悔いている眼差しを、綾子はまっすぐに受け止めて頷く。任せなさい、と胸を叩いてみせるような、『姉』の顔だ。

「ええ、一応は。私が戻るまでそこに居なさいって言い聞かせて出てきました」
「そうですか。良かった……居場所がわかって」

 男は長い溜め息をついた。吐ききるころには大きな体が一回りも小さくなったように見えた。

「……それで、その弟さんのことですけど」

「はい」

「直江さんがあの子とメイを本当に愛して下さっているのはよくわかりました。ですから、あの子の心配は杞憂だって言ってもいいんですよね?
 その彼がもし直江さんの子であるとしても、あなたは高耶を手放すつもりなんてないんでしょう?」

「勿論です。私にとって家族は高耶さんとメイちゃんだけです」

 男は膝の上の子どもを決して離すまいと抱きしめ、子どもは苦しがってじたばたした。
 慌てて腕を緩めた男が、ごめんなさいメイちゃん大丈夫ですか、と幼児相手に大真面目に謝るのを見て、綾子は彼らの絆を一層強く実感しつつも、青年の気持ちも良くわかるので、何と言葉を続けるかをしばし考えた。

「……あの子も決してあなたを信じられないわけではないと思うんです。ただ、ご存知のとおり、私たちは親というものを知りません。だから、その彼が本当の父親を探して来たなら、絶対に邪魔なんてできない。あの子はそう強く思ってしまっているんです。
 親の無い子の気持ちを知っているから。その思いを邪魔することは決してできないんです。そういう子なんです」

 自分たちの生い立ちを振り返り、青年の行動の理由を必死に訴える彼女に、男は深く頷いた。

「わかっています。今回のことは全て私の不始末です。家を出たきり連絡を取っていなかったので、弟が生まれたことすら知らなかった。そのためにあの人を傷つけてしまった。
 後悔してもしきれません」

「では、あの子のこと、許してやって下さいますか?……本当は私なんかがこんなこと口にする権利なんてないんですけど、今は私しかあの子の代わりに話せる人間がいないので、ごめんなさい」

 ぱっと顔を輝かせた綾子は、次に深く頭を下げた。
 その姿には、産みっ放しで置いて出た子どもを赤の他人である男に養育させていることへの申し訳なさと、大切な『弟』のことを頼む『姉』としての想いが滲み出ていて、相手は胸を突かれる思いだった。

「いえ、とんでもありません!あなたが高耶さんを見つけて下さらなかったら私は二度と彼に会えなかったかもしれません。ありがとうございました」

 男は膝の上の子どもをつぶさないように気をつけながら頭を下げた。


 目の前の女性がこの子を産んでくれたおかげで、自分は彼という伴侶に出会い、三人家族を作ることができた。寒々しいばかりの『house』だったこの家が、幸せな『home』になることができた。
 自分にとって欠けていた大切なピースは、この女性が与えてくれたようなものだ。


 男は心からの感謝をこめて頭を下げ、やがて顔を上げたときにはその表情にはもはや曇りは無くなっていた。ためらいも迷いも、吹っ切った顔だ。

 彼は決然として続けた。


「すぐに実家に連絡を取ります」



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* back *


10/01/11


ねーさん、Good job !
……な回でした。
さて、いよいよ橘家に真相を直撃!


読んでくださってありがとうございましたv
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