images by NORI's!baby,baby! ... "unexpected visitors"
「鞄……置いてきちまった」
伴侶を振り切って飛び出した青年は、終電間近の駅にとぼとぼと歩いて行った。
ひと気の無い住宅街を歩いていくと、自分の足跡だけが空虚に響いて、青年は否応なしに今日の出来事を回想することになった。
春に出会い、あの男のもとへ身を寄せて、もう何ヶ月経つだろう。
夏に求婚を受け入れてから半年近く誰よりも傍に居て、何でも知っている気になっていた。
危なっかしく子どもをあやす大きな手とか、
包み込まれると安心する広い胸とか、
自分を呼ぶときの声音とか、
ただいまの笑顔とか、
たくさん、たくさんのことを知ったつもりになっていた。
破天荒な両親に愛想を尽かして実家を出たきり、連絡を取っていないということも最初のころに聞いていた。あまり好んで話したい話題ではないようで、それほど詳しくは聞かなかったし、訊ねていない。
あの男が自分の言葉で話すことだけを知っていればいいと思っていた。
それで充分だと。
けれど、さっき見た表情は―――
十六年前に故郷に置いてきた恋人のことを思い返すあの顔は―――
見知らぬ男のものだった。
その人とどんなふうに出会い、どんなふうに恋をして、どんなふうに愛を交わしたのか。
ひねた中学生だったと自ら口にするあの男は、本当はとても優しいから、きっとその恋人のことも大切にしたに違いない。そう、残されて一人で子どもを産むという決意すらさせてしまうほどに。
そんなことを思ったら、矢も盾もたまらなくなって飛び出してしまった。
どんな説明も、思い出も、聞きたくなかった。
これは嫉妬だ。
見当違いの嫉妬。そんな権利などないのに。
あの男の過去に立ち入る術など在りはしないのに。
呼び止めた時、振り返った少年の表情を思い出す。
ずっと会いたくて、探していた本当の父親に、既に別の家族がいることを知った子どもの痛みは、想像するに余りある。尋ね来る道々で『仲の良いご家族ですよ』と聞かされた彼の一歩一歩は、どれほど重かっただろうと思う。
赤の他人である自分と子どもには、あの少年からあの男を奪う権利などないのだ。
重い足取りでも、止めない限りいずれ目的地にはたどり着いてしまう。
駅に着いたところで、行く当てがあるわけではなく、青年は駅前の広場に所在無く佇むだけである。伴侶と初めて出会ったあの西口に。
駅ビルから、私鉄に乗り換える乗客が通っていく陸橋のたもとで足元の道路を見下ろしながら一人ぼんやり立っていると、不意に背後から声が掛けられた。
「……高耶?」
「え?」
振り返ると、駆けて来る女性が目に入った。
短い髪、動きやすいパンツスタイルで、ロングコートの裾を翻すその姿。くっきりとした瞳と、よく笑う大きな口は紛れもなく―――
「高耶っ!」
駆け寄った勢いのまま、がばっと抱き付かれて、橋の手すりに押し付けられた青年は、信じがたい想いで相手の背を抱き返す。
「ねーさん……」
「もーびっくりしたぁ……」
青年の元妻、今は曽根綾子となっている彼女は、ひとしきり青年の背を抱きしめると、目の前の相手が確かに本物だと納得して顔を上げた。
「いつの間にか引越ししてて居ないんだもの。もう会えないかと思ったわよ。こんなとこでばったりなんて、びっくりね」
驚きと喜びに輝く瞳は何一つ変わらない。青年はその瞳の眩しさをまっすぐに受け止めることができなかった。
「ねーさん、どうしてここに」
「一時帰国したの。慎太郎さんの具合も安定したから。
明の顔を見たくて家に行ったら、もぬけの空で本当にびっくりしたんだから。こんな時間じゃ、誰かに訊くってわけにもいかないし、とりあえず今日はホテルに戻ろうかと思って駅に戻ってきたのよ。そしたら見たことのある背中がこんなところにいるじゃない。偶然ってすごいわね」
久しぶりに会えた興奮からか、言葉は途切れることもなく次々と溢れ出てくる。
放っておいたら一時間でも喋り続けそうな彼女を、青年はやっとのことで遮った。
「あのさ、ねーさん……宿に戻るならオレも連れてってくれないか?行くとこなくて困ってたんだ」
鞄を持たずに出てきた彼は、財布すら持っていない。だからといって今日は家に帰る気にはなれなかった。今夜だけは。
「え?もちろんあたしは構わないわよ。でも、明はどこ?」
綾子は快く頷いたが、当然の疑問を口にした。彼女の帰国した目的には、弟分の高耶に会うことも勿論含まれるが、自分の産んだ子どもの顔を一目見たいという想いのほうがはるかに勝っているはずだ。
「明はオレの伴侶のとこにいる。大事にしてもらってるから心配ない」
青年は鋭い刃でも飲み込んだようにそう呟き、一瞬だけ背後を振り返った。自分が歩いて来た道の向こうを。
「ええ !? 伴侶って……」
半年ばかりの間に思いも掛けない事態に発展していることを知り、綾子は素っ頓狂な声を上げたが、
「ごめん、ねーさん。詳しいことは後で話すから、今は連れてってくれないか」
青年の瞳が今にも泣きそうに揺れているのを見て取ると、姉の顔になって即座に相手の手を取った。
「わかったわ。いらっしゃい」
* next *
* back *
10/01/07