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「こちらに橘義明さんという方がいらっしゃると思うんですが……」
早々に暮れ始めた冬の空を木枯らしが舞う時刻、暖房の効いた快適なリビングで、お昼寝中の娘を父親が飽かず眺めていると、マンションの管理人室から連絡が入った。
訪ねてきた者がいるというので、電話を繋いでもらうと、相手は自分と同年代位であるらしい声で、そう言った。
「橘義明はうちの者ですが、生憎まだ帰宅しておりません。そちらのお名前を伺ってよろしいですか?来客を伝えておきますので」
仕事上の関係がある人間にしては随分と若い声で、一体どういう知り合いなのだろうと首を傾げながら問うと、
「……橘です」
しばし間を置いて、若い声が答えた。
「橘、宏明です」
たちばな……ひろあき?
「もしかして、義明のお身内の方ですか?」
橘義明とあまりにも良く似た響きの名前。声質もどこか似ている。
義明には母親が健在で、しかし中学卒業以来連絡を取り合っていないため、兄弟が増えていないとも限らないのだ。以前本人がそんなことを洩らしたのを覚えている。
だが、相手は沈黙している。その意味を量りかねて、青年は言葉を重ねた。
「その……変だと思われるかもしれないけど、オレは義明のご家族のことを全然知らなくて。もしかして彼の弟さんなんじゃないかと思ったんですが、違いますか?」
「……戸籍上は、そうです」
若い少年の声は、肯定でありながら沈んだ響きを帯びている。
そのことに些か不審を覚えながら、青年は相手を家に誘った。
「やっぱりそうですか。じゃあ是非上がってください。義明が戻ってくるまで待っててやってください。最近はそんなに残業もひどくないし、連絡を入れたら一、二時間で戻ると思います」
「いえ、いいんです。僕、明日も学校があるので、これで失礼します。お騒がせしました」
しかし、相手は断りの返事を返した。わざわざ実家から訪ねて来たというのに、どこか会うのを恐れてでもいるようにせわしく辞去の挨拶をするのを、青年は慌てて遮った。
「ちょっと待ってくれ!ほんとに一目でいいから!オレ、義明の家族に会ってみたいんです。今そこへ行くから、待っててください!」
「え、それは―――」
相手の返事を待たずに、青年は部屋を飛び出した。
「待ってくれ!きみ!宏明くん!」
早くも小さくなりかけていた人影を追いかけ、全力疾走して青年はその背中に追いついた。
困ったように振り返ったのは、まさに彼の伴侶を少年時代に戻したかのような、すらりとした男の子だ。制服であるらしいブレザーの上下に身を包み、小さなボストンを片手に提げている。
直江ほどしっかりとした体にはなりきれていないものの、既に高耶と同じくらいの長身で、目鼻立ちといい茶色い髪といい、直江にそっくりの美少年がそこにいた。
「うわ……ほんとにそっくりだ。直江の二十年前みたい」
驚いて呟いたのを、
「義明さんの二十年前だと十歳になってしまいます。僕はこの春で高校に上がるので、今は十五です」
少年は律儀に訂正した。
「そっか。オレは夏で二十一。六歳違いか」
高耶は直江のミニチュアが目に楽しくてならないらしく、笑顔で頷いている。
「ところで、お家に赤ちゃんを置いているんじゃないんですか?一人にしておいて大丈夫ですか?」
少年はマンションを見上げて首を傾げた。
「ああ、今昼寝してるから、少しの間なら。よく知ってるんだな」
「ここまで来る途中にあちこちで人に尋ねて来ましたから。とても仲の良いご家族だって、皆さん口を揃えていました」
少年は少し翳りを帯びた表情でそう言って、目を逸らした。
「ありがとう。なあ、本当にちょっとでいいから、寄っていってくれないか?帰りの時間が問題なら、直江が帰ってくるまでいなくてもいいから、少しだけ話をさせてほしい。だめかな?」
青年は伴侶がその存在も知らない弟のことを、どうしても帰したくはないようだ。破天荒な両親に嫌気が差して家を出たきり連絡を取っていないという話だが、こんなにそっくりな弟を見たらきっと喜ぶに違いないと踏んでいる。
だが、その少年の表情は硬い。青年の言葉に気になる点を見つけたようで、ぽつりと呟いた。
「……直江って呼ぶんですね、義明さんのこと」
「ん?ああ。小さい頃の呼ばれ方が身にしっくりくるらしくて。でも会社や戸籍は橘なんだけどな。家の中では直江って呼んでる」
無意識にいつもの癖で伴侶を直江と呼んだ青年は、何の含みも無く説明したが、相手にとっては重要な意味のあることだったようである。
そのまま消えてしまいそうな繊細な横顔で、直江とそっくりな長い睫毛を伏せた。
「そうですか。彼にとって橘はやっぱり、捨てたい過去なんですね……」
「えっ?そんなことねーよ!」
思わぬ台詞と少年の風情に青年は驚き、すぐに否定したが、相手は憂いをたたえた琥珀色の瞳を睫毛で隠すようにし、
「僕はその橘の一番の鬼門ですから、やっぱり顔を合わせるわけにはいきません。ここへ来たことも内緒にしておいてください。お願いします」
と頭を下げた。
「鬼門だなんて……直江はきっと喜ぶのに」
青年は不可解な台詞に首を捻る。伴侶がとても愛情深いということをよく知る彼は、この少年の存在を知った伴侶の驚いた顔とそれに続く微笑みを容易に想像することができた。
それなのに、目の前の少年は伴侶にそっくりな顔に儚げな微笑みを浮かべて首を振るのだ。
「僕は、橘義明という人が本当に生きてることを知りたくて来たんだと思います。彼は確かにここにいて、仲の良い三人家族を作っていて、幸せそうですね。それなら、もういいんです」
中学生とは思えない大人びた表情に、掛ける言葉を見失った青年は、
「本当に帰るのか?せめて明に会って行ってくれないか?」
それでもこのまま帰してはいけないような気がして、娘をだしに引きとめようとしたが、相手は俯いて首を振った。
「いいえ、今日の今日で妹の顔をまともに見られるほど強い心臓じゃないので」
「え?」
殆ど呟きに近いその台詞が、青年を凍りつかせる。
「じゃあこれで失礼します。さようなら」
少年はもう一度頭を下げ、今度こそ走って行ってしまった。
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09/12/25