baby,baby! ... "unexpected visitors"
低い呟きに返ったのは、静かな声だった。
「実家に電話して確かめました。宏明は俺の弟です。息子ではありません」
黒い瞳に疑念と希望をない交ぜにしたうるみを帯びた青年を、男はじっと見つめて言葉を紡いだ。決して目を逸らさず、どんな追及も受けようとするまっすぐな瞳に、たじろいだのは青年の方だった。
「でも……でもこんなにそっくりなんだぞ?」
瞳が揺れるのと同じように語尾も微かに震えている。その黒い瞳には、年齢を十五ほど変えたほかは何一つ違いのない、瓜二つの兄弟が映りこんでいる。
その兄は、傍らに掛けた弟へちらりと視線を流し、唇の端に僅かに笑みを刻んだ。
「ええ。俺も話を聞く前に顔を見ていたら疑ったかもしれませんね。母親が同じ兄弟というだけにしては似すぎている。まして年齢が合うとなれば、違うと言い切る自信はありませんでした」
「じゃあやっぱり」
兄弟の間に流れる空気が戸惑いを含みながらも和やかであることが、青年の誤解を一層煽った。愛娘の小さな体をまるで命綱のようにしっかりと抱いて、瞳を伏せる。
「違うと言ったでしょう?橘の兄に笑い飛ばされましたよ。同じ父親と母親の間に生まれた兄弟が似ていて何がおかしいのかと」
青年の伴侶はそんな姿に胸を痛めたが、敢えて明るい調子で言葉を続けた。うっかりすれば聞き流してしまいそうな何気ない調子で、三十年来の問題の解答を口にした彼だったが、青年は聞き逃しはしなかった。
「……同じ父親?」
隠し子疑惑の筈が、思いがけず男の出生の問題に話が飛んで、青年はまさかと息を飲む。
伴侶から聞いた数少ない実家の話の中で、彼が父親の顔を知らないことを表面上は気に掛けていないように見えて、本当は気にしていると感じていたからだ。
自分の土壌を知らない不安は、孤児の青年にとっても身近なものだった。
青年とその娘を得てようやく『家族』を得た男は、その大切な相手に向かってやや苦笑気味に微笑みかけた。
「ええ。私の父親は橘の父なんだそうですよ」
「えっ……」
思いがけない話に青年は絶句した。男の母親の実家はその橘と対立関係にあったはずではなかったのか。結婚に際しても祖父母は難色を示したという話だった。
まさかそんな相手が父親だとは。
「俺は父親のいない子どもだったとお話しましたね。母はシングルマザーだと。ですが、父親は当時既婚者だった橘の父だったのだそうです。母は俺が成人したらそのことを話すつもりだったのだと兄は言っていました」
青年の見開いた瞳に浮かぶ疑問を読み違えることなく、男はそれに頷きかけて事情を説明した。その静かな口調と、片頬に刻まれた苦笑の欠片が、その言葉が真実であることを青年に伝える。
「じゃあ本当に……」
ようやく事情を理解した青年は、それでもまだ納得するまでには至っていない表情で呆然と呟いた。
次に口を開いたのは、件の少年だった。彼は兄の伴侶をまっすぐに見つめ、その鳶色の瞳に真摯な色を浮かべてきっぱりと頷いた。
「はい。僕は義明さんの子どもではなくて、末の弟です。僕も母に電話して聞きました。間違いなく自分の産んだ子だと言っていました。お騒がせして申し訳ありませんでした。
謝って済むことではないとわかっていますが、どうか誤解を解いてください!兄はあなたを離したりしません。たとえ僕が本当に息子だったとしても、兄にとっての家族はあなたと明ちゃんだけです。
お願いです。どうか兄を見捨てないでください。お願いします……!」
途中から双眸を揺らし始めた少年は、最後には深く頭を下げて動かなくなった。
「宏明くん……」
「お願いします。僕のせいで家族が壊れてしまうなんてことになったら……あんなに仲の良いご家族だって評判なのに」
深く頭を下げたままの少年の声はくぐもって震えていて、その胸にある恐れと後悔が如実に顕れている。
青年はその肩に手を伸ばし、
「顔を上げてくれ。君は何も悪気があったわけじゃない」
「いえ、どんな気持ちだったにしても、お二人の邪魔をしてしまったのは事実です。申し訳ありませんでした」
少年は肩を震わせ、青年はどう対応すべきか判断しかねて、手を伸ばしたまま動かない。
沈黙を破ったのは明だった。
父親の膝の上から滑り降りた子どもは、深く頭を下げたまま動かない少年の前に歩いて行って手を伸ばし、
「ひー」
と呼んだ。
呼ばれた少年は反射的に顔を上げ、目が合って嬉しそうに笑う彼女につられて微笑んだ。
「明はお父さんにそっくりなお兄ちゃんが大好きみたいよ」
綾子が朗らかに言葉を加えると、青年と男は肩の力を抜いた。
「そうだな。一番賢いのは明かもな。すごくシンプルに、何が大事かわかってる」
「そうよ。明はあんたが好き。義明さんが好き。だから一緒にいたら喜ぶし、いないと泣くわ」
「ああ」
「あんたは?あんたが一緒にいたい人は誰?いないと泣くのは誰?」
綾子は母親のように青年の髪を撫で、その瞳を覗き込んだ。わかっているでしょう?と。
「あたしは慎太郎さんのところへ行ったわ。明を置いて。母親失格よね。それでもあたしにとって、たった一つの大切は慎太郎さんだから。誰に責められてもこれだけは譲れない。
あんただって、誰に責められても譲れない大事な人がいるでしょう?どうして言わないの?誰にも渡さないって。それより大事なものなんてないでしょう?
欲しいって言いなさい。誰にも渡さないって。おまえだけが欲しいって」
「言うのよ。いいんだから。その言葉をその人は待ってるわ。あんたが言わないと奪えない。ずっと待ってたんだわ」
彼女は愛する『弟』の肩を抱いて力付けるようにとんとんと叩いた。
彼女のぬくもりに力を得て、青年は手元に落としていた視線をゆっくりと視線を上げてゆく。その視線は、やがて求める相手の瞳を捉えた。彼の向かいに掛けた男の、深い色をした二つの瞳が、その瞳をまっすぐに受け止める。
言葉もなく、視線を交わした。
「……なおえ」
青年の唇からやがてぽつりとこぼれ落ちたのは伴侶の名だ。
「はい」
相手はいつものように返事をし、いつもと同じ優しい光をたたえた鳶色の瞳で瞬いた。
その双眸に自分の姿が映っているのを認めて、青年の唇からは堰を切ったように言葉が迸った。
「なおえ……オレが欲しいのは……なおえ。直江!」
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10/08/15
前回から三ヶ月も空いてしまいました……
やっとやっと、高耶さんの誤解は解けて。
読んでくださってありがとうございましたv
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