the flight

















「奇遇ですね」
 例の、慣れた人間にとってはうんざりする以外の何物でもない、ぱさぱさしたサンドウィッチとパックのオレンジジュースという夜食が出された後、照明が落とされ、乗客がすっかり寝静まったころ、トイレに立った高耶にそっと近づいてきた直江が、トーンを抑えた声で言った。
 客室乗務員が食事の支度などをする、カーテンで閉ざされた空間にさらい込んでの台詞である。
 壁と男の間に挟まれた格好の高耶が、殺した声で怒鳴った。
「それはこっちの台詞だ!いきなりスチュワードの格好なんかしてきて驚かせんな。
 びっくりして寝る気も失せちまったぜ」
 はあ、とため息をついて横を向く。
 しかし直江は取り合わない。右手を相手の顎に掛けてまっすぐこちらを向かせ、
「スチュワードは差別用語ですよ。フライトアテンダントと言ってくださらないと」
 にっこりと微笑みながら揚げ足を取られて、高耶が撫然と目を伏せた。
 そして、しばらく黙った後に、捨て台詞とばかりに呟く。
「……うるせえ。女の敵のくせしてっ」
 さすがにこたえたようにまばたきをして、男は一瞬押し黙った。
 しかし、次の瞬間にはくすくすと笑いだして高耶を抱きしめている。
「おい!なぉ」
 驚いて大声を上げかけた唇をすばやくふさいで、とろけるようなキスを仕掛ける。
 相手はTPOを考えて精一杯抵抗を試みたが、やがて諦めて応え始めた。

 ここは飛行機の中だ。
(でも直江と会うのは本当に久しぶりなんだ)
 いつ他のフライトアテンダントが来るかわからない。
(そんな奴、馬に蹴られて死んじまえ)
 今はみんな寝てる。静かで、音なんかたてたら一発だ。
(声なんて殺せばいい)

 ―――ああ。
 気持ちいい……。



「で、いつからこんなことやってるんだ?一日二日じゃねーだろ、何が目的にしても」
 長い、しかし甘いだけのキスを終えて、高耶が問うた。
 直江はええと笑って二ヵ月になりますねと答えを返した。
「そっか。まあ、体調に気イつけろよ。地上とは違うんだから」
 そう言って指を伸ばし頬に触れてきた高耶があまりにもいとしくて、直江は再び唇を合わせた。
 今度は手加減なしに官能を揺さぶってやったので、相手は真っ赤になって両の拳でぽかぽかと胸を叩き抗議してきたが、取り合わずに続ける。
 存分に味わってから解放してやると、うるんだ瞳で思いきり睨まれた。
「……ばかやろぉ。どこだと思ってんだよ!」
 たまらない、と恨みがましい視線をまっすぐに向けられたが、直江は一向に気にしない。
「どこだって構わない。随分長く会わずにいたんですよ?触れたく思って当然でしょう」
 しれっと返されて高耶は続けるべき言葉を奪われた。
「…サイテー」
 やがて悔し紛れに呟いたのは、すっかり口癖になってしまった一言だった。
「おや、つれない。いいんですか?つらいのはあなたですよ」
 一瞬目を見開いてから、くすりととろけさせて男は喉の奥で笑った。
 お手伝いしましょうか……と耳元にキスを一つ。
 無理矢理に仕掛けてはこないものの、直江の声音づかいは確かにそれを狙っていた。
 実際には無理な話だとわかっているから、半ば悪戯にも近い行動だった。
 高耶はため息をついてそんな相手を諭す。
「あのなあ。ここは皆が寝静まった飛行機の中だぞ」
 何だってオレが諭さなきゃならないんだか。
 ちょっとばかりやばい状態になりながら、それでも自分が流されたらおしまいだとわかっているから、彼は目の前の相手を思いとどまらせようと台詞を続ける。
「とにかく!今日はここまでだ。……明日付き合ってやるから」
 腰の腕を回してきた相手の胸を一生懸命に押し返して、言わなくてもいいことまで言ってしまった。―――尤も、それは本心からだったので、別段問題になるようなことではなかったが。
 相手は嬉しそうに微笑んで、ようやく肯いた。
「しょうがありませんね。それで手を打ちましょう。今はおとなしく寝ていてください。……ただし」
 そこでふっと気配を変えて、直江は目を眇めた。
「何かあったらすぐに身を守れるようにしておいてくださいね。……まぁ、あなたに限ってこんな忠告は無用でしょうが」
 続いた言葉は言外にこれから何かが起こるということを匂わせており、
「……わかった」
 高耶は真顔になってかるく肯いた。
 元より、何の理由もなく直江がこんなことをしているとは思っていない。
 プロ同士、高耶はすぐに合点する。その瞳に偶然か故意かを疑うような光が瞬いたのを除けば、彼の反応は自然だった。
 そうして、ふと伸び上がり、男の唇に軽いキスを落としてから、するりと腕を抜け出してカーテンをそっとかき分け、音もたてずに歩いて席へ戻ってゆく。
 深めにシートを倒して毛布を膝に引き上げ、肘掛に右の肘をついて頭を預けると、彼は程なく眠りに落ちた。
と言っても、傍目に見えるほど深い眠りについているわけではない。何かあれば直ちに対応できるだけの準備はできている。
 その、仮眠に近い状態に入った彼を見届けて、長身のフライトアテンダントは静かに奥へ引っ込んだ。


 高耶の眠りが妨げられたのは、それから程なくだった。
 ふいに、眠っていたはずの乗客の中から立ち上がった者たちがいたのだ。
 示し合わせたらしく、きっかり3:00のことだった。




020925






next : 3

back : 1



background image by : KAI