『当機はまもなく離陸いたします。シートベルトをお締めください。……』
『Please fasten your seat belt.This plane will soon take off ...』
離陸の準備に入った機内に、アナウンスが流れる。
Please turn the table and the seat back to the right position, and make sure your seat belt be tightly fastened.
We will soon take off ...
ざわつく機内。
あちこちでシートベルトを締めるカチッという音が響く。
放送が聞こえていないのか否か、テーブルやシートを倒したままにしている乗客の傍へは、フライトアテンダントがさり気なく近寄って二言三言囁きかけ、正常な位置へ戻させる。
窓のシェードを上げ忘れている客に対しても同様の遣り取りがあって、ようやく機内は離陸体制を整えることができた。
徐行運転していた機が、停止した。
滑走路に入ったのだ。
しばらく時間合わせと最終調整が行われ、
「当機はまもなく離陸いたします。もう一度シートベルトをご確認ください」
機長の声で案内が入る。
ついさっきまで忙しく行ったり来たりして立ち働いていたフライトアテンダントの姿は、ここに至ってようやく消えた。
彼らは彼らのポジションについてシートベルトを締めている。
乗客のベルトが二点固定式なのに対して、彼らは三点式だ。
衝撃を受けたときに三点式の方が危険性が低いことは周知である。
これは、何かあったときに、指揮を執るべき乗務員が優先的に生存できるよう、そうしてあるのだというが、乗客側には納得できない話である。
どうして乗客の命を優先させようとしないのか。
なぜ乗客のシートベルトも同じように三点固定式にしないのか。
これは有名な長野山中の日航機墜落事件においても重要な論点の一つであったのだが、結局うやむやになったまま未だにこうして二点式が続いている。
もっとも、今こうして機内にある乗客のうち一体何割が、自分の腹部にある凶器にそんな問題があることを知っているのかどうかは、大いに疑問だが。
そうして機内が完全に体制を整えると、照明が落とされた。
一瞬にして機内は夜間照明の薄暗さに包まれ、代わりに窓から覗く夜の空港の照明が鮮やかに浮かび上がる。
乗客たちはその光景に見入り、意味のない歓声を上げた。
そして、機体が滑り出した。
ゆるやかに動き出し、急激に加速する。
一気にグランドスピード300km/hを超え、乗客の体はいずれもその激しい慣性抵抗に後ろへ縫い付けられていた。
その状態で数十秒。
滑らかなはずの滑走路にあってさえ、この速度では摩擦抵抗も半端ではない。
ごろごろ、という、タイヤのたてる振動が耳を塞ぐ。
やがて、その音に変化が訪れたことで、機が離陸したことが悟られる。
三つのタイヤが地面を掻いていた音が、ふと軽くなる。
同時に、平衡感覚に加えられた微妙な変化で、機体前部が持ち上がったことを知った。
そして約一秒後、後輪も地を離れた。
一瞬の浮遊感の後に、鉛直方向の圧力変化がかかってきて、上から押しつぶされるような感覚をおぼえる。 内臓がへしゃげるかのような感じが二三秒続いた後、再び重心を失って浮遊感に包まれた。
しかしそれもすぐにおさまり、体はちょうど自動車で坂道を登っているときのような上昇感を覚えた。
そしてそのまま上昇を続ける。
離陸して、約五分。
シートベルト着用サインが消え、アナウンスが入った。
『当機は無事、○○国際空港を離陸いたしました。機体が安定しましたのでシートベルト着用サインは消えましたが、急に揺れることもございますので、お席におつきの間は必ずシートベルトをお締め下さい』
目を瞑ったままの青年はやはり、動かない。
他の乗客たちがざわざわとベルトを外し、席を立ったりし始め、フライトアテンダントたちもきびきびと仕事に動き出した中で、彼はただ、変わらぬ瞑想するような表情のまま、シートに身を沈めている。
フライトアテンダントたちの仕事は、まずお絞りを配ることから始まった。
左手にトレイ、その上にはかたく絞って熱くしたロール型のお絞りが積まれている。積まれているというより、並べられているというべきか。
また、それを客に渡す際の右手については、うっかり触ったら火傷するからなのか、サーバーを使っている。
座席から少し屈み込むようにして身を折り、端っこをつまんで持ち上げ、ばらりと広げて熱を逃がしてから客に差し出す。こうすれば客の方も火傷などをせずに済むのだ。
順々にそうして歩いて、女性のアテンダントは青年の席に至ったとき少し首を傾げて迷うような様子を見せた。
寝ているようにも見えるこの客を起こしてまで、お絞りを渡すべきか否か。
本当に寝ているのなら渡す必要はないし、寝ていたのでないにしても、周囲の気配で気づきそうなものだ。
気づいていてあえて何も反応を返そうとしないということは、つまり拒絶の意志表示なのだろう。
そう結論づけて、彼女はその青年の前を通り過ぎていった。
機内サービスはある意味で過剰である。もっとも、本当に必要だと思われることにはどこか詰めの甘さを感じてしまうのだが。
離陸直後のサービスはお絞りだけではない。
使用後のお絞りを回収してまわった後に再びやってくるアテンダントの手には、やはりトレイが載っている。
その上には、今度は、透明なプラスティックのコップがぎゅうぎゅうに並べられていて……定番なのだが……その中身は必ずといっていいほど、オレンジジュースだ。
これはこの国の航空会社に限ったことではなくて、他の国際線の場合も大抵例外はない。何か違うところがあるとすれば、それはプラスティックのコップに注がれて出てくるか、個別のパックのままで出てくるかということくらいだろう。密閉容器で出される分だけ、他国線の方がましかもしれない。
それでも、普段飛行機に乗り付けないらしい大半の乗客たちは、物珍しそうにそのコップを受け取っていたが、青年はやはり、目を閉じたまま気づかない顔をしていた。
この便は夜に飛んで朝に着くものだ。そういった場合、『夕食』は出ない。離陸したすぐ後に『軽食』なるもの―――大抵はサンドイッチとこれまたオレンジジュース(ただし紙パック)なのだ―――が出されてお仕舞いである。つまり、今オレンジジュースを飲んでもどうせすぐにパックで同じものが出てくるわけだった。
わざわざ重複してまで同じものを口にしたいほど、青年は慣れを知らない人間ではない。
そんなこともあって、彼は目を瞑っているのだが、そこへやってきた先ほどとは別の男性のアテンダントは、少し躊躇うようなそぶりを見せた後に、控えめに声をかけた。
「お客様……お客様、オレンジジュースはいかがですか」
―――そのとき、薄く目を開きかけた青年の表情に劇的な変化が表れた。
気のなさそうな薄目だったものが、一瞬にしてクリアになり、まん丸に見開かれたのだ。
「なお……っ」
「どうぞ。
失礼します……テーブルを」
低めの豊かな声でそのフライトアテンダントは言いながら、右手を伸ばして青年の前のテーブルを下ろした。
そこへコップを置いて、手拭き用のペーパーを横に添える。
そうするときに少し屈みこんだ格好になった彼は、青年にだけわかるようににやりと微笑んだ。
「……」
目と目が合って、青年は合点したように表情を元通りに静めた。
二人は知り合いだった。それも、ごく深い付き合いの。
しかし二人とも、それぞれに特殊な職についており、互いの行動については殆ど何も把握していなかった。
どうやら男は何らかの理由でフライトアテンダントに成りすましているらしい……と、青年は心の中で納得していた。
彼の知る男はこんな平和な職についてはいなかったから。
転職するはずなどなかったし、それからば偽装に違いない。 、、
空の上で何を集めているのだろう、と少しだけ唇で笑って、彼はそれきり考えるのをやめた。
020925
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