「楽しかった……」
どれほど時間がたったのかすらわからないほど弾き続けて、ようやく満足した。
鍵盤から顔を上げて傍らを向くと、やはりあの執事が拍手しながら微笑んでいた。
「お見事でした。ピアノがこんなにも喜んで輝いております。おわかりですか」
「うん……なんかわかる気がする。オレもすごく胸がどきどきして高揚感でいっぱいだ」
「そうでございましょうとも。あなた様とピアノとが結ばれている証なのでございますよ」
「そうなのかな。嬉しい……」
呟いて、顔を上げる。
「オレさ、昔ピアノ習ってたんだ。専門科に進んで、賞なんか一度も取ったことないけど、本当に好きだったんだ、ピアノ弾くの。
でも、家が事業に失敗して、習い事する余裕なんかなくなっちまって、もう何年も弾けなかった。
……だから、今日はほんとに楽しかったんだ。ありがとう」
「それは良うございましたね。このピアノも長い間弾き手を失っておりました。あなたさまを得てどんなにか喜んでいることでしょう。本当に良うございました」
「ありがとう。……えっと、その、」
相手の名前を知らないことに気がついた。
「わたくしの名でございますか?あなたさまの思い描いた名をお与えくださいませ。それがすなわちわたくしの名となりますれば」
「……それじゃ、」
ちょっと考えようと思考に沈むと、ひとりでに浮かんできた名前があった。
「―――直江。直江って呼んでいい?」
たった今思いついたのに、不思議なほどしっくりと舌になじんだ名前だった。
それを口にすると、相手が目を見開いた。
「……直江、でございますか」
「うん。今思いついたんだけど、なんか急に頭の中に浮かんできた。自然に」
その言葉を聞くや否や、相手がこれまで初めて見せるほど機敏な動作で目の前に迫り、穴の空くほどこちらの瞳を見つめてきた。
じっと、まるで何かを探り取ろうとしているかのように。
瞳から視線という手段でこちらの内部に入り込み、何かを掴み取ろうとしているかのように。
澄んだ鳶色の瞳を見ているうちに、何かが心の中で目覚めた。
この目を知っている。
いつか見た。目の前で。
いつもいつも見つめていた。
―――胸が痛い。
締めつけられるように痛い。失った何かが、引きちぎられた何かが、心を苛む。
何か……何かがあった。ずっと前に、何か……
一体何が?
自分は、直江という名を知っている。
この瞳を知っている。
この気配を知っている。
そう、お前は……
「……なおえ……?」
呟くと、相手の瞳が揺れ、何か強烈なものが全身に広がってゆくようだった。
「かげとら、さま……」
呟きを耳にしたときには、相手の腕にきつくきつく抱きすくめられていた。
02/12/24
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