「私はいつでもここにおります」
返ったのは、意外にもごく普通の声だった。際だって良い声だったが、きちんと日本人男性の声。
こんな場所で生身の人間に会うとは思っていなかったのに。
いや、それも勝手な思いこみだ。これまで動物一匹すら見あたらなかったからといって、人がいないとは言えるわけじゃない。
「……じゃ、最初から聴いてたんだ」
カタリと椅子から降りて、男の方へ向き直った。
頭を振りながら呟くように言うと、相手はふわりとした笑みを浮かべている。
「そうでございますね。聴き惚れておりました。お上手です」
本物の執事のような物言いだ。
服装にはぴたりと一致していたけれど。
「その、……ごめん」
頭を下げた。
勝手にピアノを弾いたことに対する謝罪だ。
しかし、相手は瞬いたのみ。
「どうして謝られるのです?わたくしは喜んで聴き惚れておりましたのに。
どうぞお続けくださいませ」
綺麗な指をしている。
彼はその大きな手をそっと差し出してピアノを指した。
「え、でもこれ、あんたのピアノなんだろ?」
戸惑って問うと、相手は微かに間をおいてから、首を振った。
「―――いいえ。わたくしはこれを守っているだけでございます。主人のピアノを」
その言葉尻に哀しみに似た気配を感じた気がして、少し息をのむ。
「えっ、じゃあご主人の許し無しにこんなことしちゃだめだろ?」
問うた声に返ったのは、聞くだけでその深い悲しみが伝わってくるような声音だった。
「……いいえ。主人は……もう亡うなりましたので」
「えっ」
今度こそ驚いて、目を見開いた。
この執事らしき男の主人は既に亡くなっている?このピアノの主人だったという人は。
だから、さっきあんなにも悲しそうな顔をしたのか―――
声を出せないでいる自分をどう思ったか、男はふっと顔から悲しみを消して、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「わたくしはただこれを守り続けてゆくばかりでございます。
出会った人間はあなた一人。―――ピアノが誰かを喚んだのは主の死以来のことになります」
「喚ぶ?」
不思議な言いまわしに首を傾げる。
相手は表情を変えずに肯いた。
「はい。このピアノは弾き手を喚ぶのです。前の弾き人は主でしたが、それ以前にも何人か弾きこなした人物がおられたと聞いております」
「へぇ……珍しい話なんだな」
ピアノが弾き手を選ぶだなんて、まるで人格を持ってでもいるかのようでおかしな話だとは思ったけれど、日常世界で聞いたら笑い飛ばしてしまいそうな話でも、このとき、この空間で起こるならば、ちっとも違和感はなかった。
普通ではない森の中、普通ではない状態にあっては、常識とか日常とか、そんなものはどうでもよかった。
今ここに自分はいて、相手がいて、ピアノがあって、そして素晴らしい音を聞かせてくれる。
それが、確かな事実なのだから。
肯いていると、相手はやはり穏やかな笑みを浮かべたまま、少し首を傾げた。
「そうかもしれませんね。わたくしにはその理屈はわかりませんが。
わたくしはただこのピアノを守り続けるばかりでございますから」
その言葉が、何だか寂しくて。
ふと思った。
この男はずっとこうやってこの不思議な森の中でピアノと共にあったのだろうか。
「―――ずっと……一人で?」
口に出すと、相手は僅かに瞳を伏せて、
「そうでございますね。それがわたくしの務めでございます。
ピアノが喚んだ方のもとへこうして現れますほかは、ひっそりと表面を磨くのみでございます」
たった一人で、こんな寂しい森の中で。
長い間、彼はただひたすら待っていたのだろうか。
いつか誰かが現れる日を。
何も言わないピアノを相手に、いつも沈黙している鏡面を磨きながら。
何だか悲しくなってきた。
泣きそうになって、慌てて話題を変える。
「あの、ピアノが喚ぶっていうのは―――?」
執事は目をしばたたいて答えた。
「こうしてこのピアノを『見る』ことのできる方とお会いすることです。ピアノが喚ばない方には、このピアノは『見えない』のでございます」
「見えない?」
また不思議な言い回しが出てきた。見えないだなんて、実際今この場所にピアノはあるのに。
一体どういう意味でそんなことを言うのだろう。
目の前にそれが際立った存在感を誇示しているというのに妙な言い回しを使った執事は、けれど微笑みを動かさないで肯いた。
「さようでございます。
先ほど申し上げましたとおり、わたくしとこのピアノはいつでもここにおります。けれど、ここへ来られてもわたくし共に気づかれる方はおられないのです。
その中で、ごくたまに、あなたさまのようにこれに気づく方がおられます。これは前のその方が亡うなって以来のことになります。
つまり―――あなたさまが、このピアノの現在の主なのでございます」
「え……っ」
ふんふんと肯いていたところへ、とんでもないことを聞かされた。
非常な驚きはしばしば物理的衝撃に酷似した感覚をもたらすが、まさにそんな感じだ。
がつんと殴られたような、という使い古された形容詞がぴたりと当てはまる。
相手はこちらの驚愕に厭味のない微笑で答えた。
「―――というわけですから、どうぞお続けください。わたくしは隅で聴き惚れさせていただきますれば」
そう言って本当に後ろへ下がろうとするので、必死に止めた。
「そ、そんなこと言われても」
「あなたさまはピアノを求めていらした。あのように喜びに満ちた音色をこのピアノが奏でたのは、本当に久しぶりのことでございました。
ピアノがあなたさまと呼応して、あのように美しい音色を生んだのです。それが、ピアノの主人たる必要十分条件なのでございますよ」
こちらの狼狽にも動じず、執事は柔らかな声で、しかしきっぱりとそう宣言した。
「……オレが、ピアノと呼応した?」
鸚鵡返しに呟いてみて、その言葉がすとんと胸に落ちてゆくのを感じた。
「さようでございます。このピアノはあなたさまを得て喜んでおりますよ。そして、あなたさまもそうでございましたでしょう?
あの音色は、互いが互いを求め、受け入れた証にございます」
「そう……なんだ」
腑に落ちた。
理屈ではない何かが、確かにそれを受け入れたのを感じた。
オレは長い間あの音色を探していたのだ。取り付かれるように弾いて、求めていた音が求めていた以上に高みへと上ってゆく感覚を全身で感じた。
―――きっと、それが『呼応』したということなのだろう。
「ですから、どうぞ心ゆくまでお弾きください。ピアノがあなたさまと紡ぐ音を、わたくしに聴かせてくださいませ」
02/12/20
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