忘れられない音、忘れがたい時間。
紐解かれたのは、ただ一人のためのetude……
昼間であろうとも、どこか明るさを忘れた場所。そこはそんなところだった。
静けさが一切の光を包み込んで隠してしまう、そういう暗さのある場所。
その森が好きだった。
白く枯れた木が林立する。
まるで何もかもが止まってしまった空間。
緑を茂らせ、実を結んで、紅葉して散らせても、不思議なほどその森は「静」だった。
その森は、おかしなことに動物の気配を持たない。
他の「生命」を受け付けないかのような、その特異さ。
小鳥一羽、毛虫一匹すら、その森には存在しない。
一切の「動」がないのだ。
風すらも、あの森の中では息をひそめているように思える。―――いや、ひそめるという表現も不適切だった。そんな風に意図的に静まっているわけではない。
ただ、そこには、そういう空間が広がっているのだ……。
足を踏み入れると、さくりと雪を踏む音が響いた。
それが、この空間に唯一存在する音で。
雪化粧して真っ白になった枯れ木の中を、さくりさくりと歩いてゆく。
音のないこの空間で、皮肉にも自分が探しているのは、忘れられないあの旋律だった。静まり返った空間に響きわたる、一筋の光のような奇跡の糸。
ずいぶん前に失われたそれを、自分はこの静寂の中に見いだそうとしていた。
―――だから、最初にそれが目に入ったとき、現実のものだとは思わなかった。
きっと頭の中で思い描いたものが見ているだけなのだと。
白い白い空間にぽっかりと現れた黒光りするグランドピアノ。そして椅子。
惹かれるように歩み寄って、初めてそれが使い込まれた長い歴史を持つものだと気づいた。
磨き込まれた黒い鏡面。刻まれた銘はこの道をかじった人間ならば知らぬ者はない名工のもの。
なかば夢心地で椅子を引き、浅く腰掛けると、既に意識は違う場所へ飛んでいた。
両手の指が、磨かれた白い鍵盤の上を走る。
たちまち、意識は彼方の光を見た。
指は浮かされたように走り続ける。
好んで弾いたのはエチュードだった。殊に、別れ、革命、そして木枯らしが気に入りだった。
情熱のままに、たて続いて指を走らせる。
周りのことは一切消え去って、かつての光がすべてを包み込む。
光、光、光。
そして―――彼方を見る。
最後の音を弾き終えて、かくりと項垂れる。
体の底から押し寄せる充足感と喜びを噛み締めていると、ふいに耳が、存在するはずのない『音』を捉えた。
パチ、パチ、パチ……
誰かが拍手している。
はっと首を巡らせれば、まるで古い時代の執事のような出で立ちをした長身の男がそこにいた。
先ほどまでは確かにいなかったのに。
いつのまにそこへ来ていたのか、ずっとすべてを聴いていた顔で、心からの拍手を送ってくる。
「……いつから」
こぼれた言葉が、この空間で初めての『言葉』だった。
02/12/20
|