は なのも とにて、は る
花の下にて、春
自分はまだ未成年で、他に兄弟もいなかったので、両親亡き後は親戚に頼るしかなかった。だが、そんな親戚は一人もいない。両親ともに兄弟の少ない家系に生まれ育っているので、祖父母亡き後は親戚と呼べる者は顔も見たことのない遠い縁者しかいなかった。
こんな状態で、この先どうやって生きてゆくのか。
そんな思いを抱く余裕は、しかし、心のどこにも無かった。
自分は空っぽになってしまっていた。一人っ子だったため、自分にとって家族とは両親しかいなかった。その両親が、思いもよらないことで急にいなくなり、自分は世界が消えてしまったような状況に陥っていた。完全な無気力状態で、何を見ても何も感じなければ、何を言われても素通りするだけ。
両親と仰木夫妻の合同告別式が行われた日、楽しみに待っていた桜が開いた。
桜が咲いたらお花見に行こうねと言い合っていたのは僅か一週間前のことだったのに。今こんなにも綺麗に咲いた桜を、一緒に見る人はもういない。
初めて、涙がこぼれた。
そこをすかさずフラッシュが襲う。こんなところにまでマスコミがわんさか詰め掛けているのだ。人の涙を食い物にする醜い奴ら。
たまらなくなって、その場を逃げ出した。死んでしまった両親が焼かれるところなんて見たって意味はない。これ以上あんなところにいたってつらいだけ―――
葬儀場には桜の林があった。桜は死者の魂を食らって美しく咲くというから、ここに生えている桜は綺麗なのだろう。
そんなことを頭の片隅で思いながら林の中へ逃げ込むと、―――子どもの泣き声が聞こえてきた。
ぎくりとした。本当に何かが出るのだろうかと足が凍りつく思いだったが、そうではなかった。少し離れたところの桜の木の下で、小さな子どもが蹲っていたのだ。本物の。
―――どうしたの
気になって、近づいた。それほど広くはないといっても林の中だ。こんな小さな子どもを放っておいたら迷子になってしまうかもしれない。
―――僕、どうしたの
すぐ傍まで行って、しゃがみ込んだ。黒い上下を着せられた男の子の小さな背中に手を触れると、びくり、と震えて子どもが顔を上げた。
―――……
真っ黒な瞳が、涙で一杯だった。綺麗な綺麗な黒い宝石のような大きな瞳が、透明な涙の滴を生み続けている。
―――きみ……たかやくん?
うるんだ瞳に自分が映っている。どこかで見たような目だと思ったら、ぱっと思考が繋がった。この目はあの祖父のような仰木長官と同じだ。この小さな男の子は彼のたった一人の孫に違いない。
―――うえぇ……っ
果たして、名前を呼ぶと男の子はますます顔を歪ませて、泣き始めた。ぽろぽろこぼれる涙の粒が綺麗で、でも泣いている子どもが胸に痛くて、どうしたらいいのかわからなくなった。
―――泣かないで……たかやくん、泣かないで。お兄ちゃんも泣きたいけど我慢してるんだよ。男の子だから、我慢するんだよ。ね、たかやくん。
濡れた頬を指でぬぐってやりながらそう言葉を掛けると、ひくりひくりとしゃくりあげながらも、子どもは少しずつ落ち着いてきた。
―――おに……ちゃん、だれ……?
子どもは泣きはらした目でじっとこちらを見上げて、呟いた。
―――僕は、直江。なおえ。
―――なおえ……なおえっ……!
名前を教えると、子どもは小さな手でぎゅっと抱きついてきた。
一人っ子の自分はこんな小さな子を抱っこしたことがなかったので、おっかなびっくりだったけれど、抱きしめ返すとますます一生懸命にしがみ付いてくるのが、ひどく愛しくて、そしていつの間にか、腕の中にある体の温かさが自分を癒してくれることに気がついた。
―――たかやくん。そろそろ戻ろうか。きっと、みんな心配しているよ。
しばらく小さな肩を震わせる子どもを抱きしめ続けて、その震えが収まったころ、自分は子どもを抱っこしたまま立ち上がった。下ろして歩かせてもよかったのだけれど、彼の小さな手が自分の襟首をしっかりつかんで離さなかったので、抱っこしたまま歩くより他になかったのだ。
―――ほら、きれいだね、さくら。きれいだね。たかやくん。
―――なおえ、たかやじゃない。ひめ。
綺麗に舞い散る桜の下を歩きながら取り留めのないことを話しかけていると、ふいに子どもが首を振った。
―――ひめ?たかやくんは、姫って呼ばれてるの?
―――うん。とおさんも、じいちゃあも。
姫、と呼んでほしいらしく、大きな黒い瞳と小さな手で一生懸命に訴えてくる。
―――そうか。じゃあ、まいりましょうか、姫。
抱っこした体をもう一度抱きなおして告げると、子どもはぱあっと顔を明るくして頷いた。
―――うん!いっしょにいこう、なおえ。
―――はい。直江は姫と一緒に行きますよ。
泣いていた瞳は愛らしく笑い、嬉しそうにぎゅっと襟を掴む手に力を入れてくるのがいとおしい。
―――なおえ、ずうっといっしょな。やくそくだぞ!
―――はい。ずうっと一緒にね、姫。
葬儀が済んだ後も、子どもは自分を放そうとしなかった。なおえといっしょがいい!いっしょにいる!と駄々をこねて自分にしがみ付く子どもが精一杯の思いで自分を引きとめようとしていることがわかり、離れがたく思った。無論、彼が疲れて寝てしまったら、自分はお役御免になるのだとはわかっていたけれど。
今だけでもこうして必要とされているのだということが、自分を幸せにした。
やがて子どもが駄々をこねるのに疲れてすうっと眠ってしまったとき、彼の祖父である仰木長官が自分のところへやってきた。
―――ちょうど眠りました。どうぞ、連れて行ってあげてください。
起こさないようにそっと腕から離し、祖父の腕へと小さな体を渡した。自分を満たしていたものがぽっかりと抜け落ちたような気分に唇を噛み、それでは、と立ち去ろうとしたとき―――長官が口を開いた。
―――信綱くん。この子の傍にいてやってくれないかね。
―――この子の兄代わりになって、この家で一緒に暮らしてくれないかね。
住むところは、この家に部屋を用意するし、高校も大学もここから通えばいい。昼間は学校に行って、夕方から孫の面倒を看てやってくれないか。この子は君にとても懐いているようだから。それに、同じ悲しみを知った君たち二人なら、お互いの気持ちがよくわかるだろう。
―――君が嫌なら、無理にとは言えないが……。どうだろうか。お願いできないだろうか。
―――……僕は、姫の傍にいたいです。ぜひ、ここにおいてください!
自分は子どもが目を覚ますのではないかという怖れも忘れて、叫んでいた。
―――この子を、よろしく頼む……
あのとき長官が下げた頭を、自分は一生忘れない。自分の息子夫妻をむざむざと殺された無念と、民間人を巻き添えにしてしまったという痛恨、そして共に両親を亡くした二人の子どもへの精一杯の謝罪の思いが、その深く下げられた頭に籠められていた―――。
そして今、自分はどうしたいのか。
彼が自分に生きる理由をくれたあのときから十八年。
小さな手の『姫』はもはや、『じいや』を欲しがってはいない。彼が求めているのは、自らの隣に並び立つ対等なパートナーとしての自分。
自分には彼の手を取るだけの資格があるだろうか。
……そのとき、ふいに男の脳裏に甦ってきた声がある。
『ずっといっしょな。やくそくだぞ!』
『はい。ずうっと一緒にね。姫』
男は口元を綻ばせた。
そう、これはもうずっと前からの約束。一番最初から、私はあなたの傍に生きると約束していたのだ―――
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