ビルの屋上に吹く夜風が、高ぶった感情を優しく撫でてゆく。
郊外であるとはいえ、街中に立っているこの建物の屋上から見る下界は、キラキラと輝くたくさんの光に溢れて綺麗だ。
ここが、自分の街。
両親を亡くして以来、祖父に引き取られてからの十八年を生きてきた街。
直江と一緒に十一年を生きた街。
離れてからの七年も、同じ街に生きてきた。
優しいあの人は自分のためにこの街から離れなかった。地道に所轄の仕事を続けていた。傍にはいなくても、自分のいるこの街の安全を守るために働いてくれた。
こんなにもあの人を独占して、まだ手放せないのか。この欲深い自分は。
もういい加減解放してやれよと祖父は言った。その言葉は、悔しいけれど間違ってはいない。どんなに好きでも、自分が縛ってしまっていい相手ではない。散々手を焼かせて、我が侭ばかり聞かせて、青春と呼べる筈の時期をすべて子どもに費やさせておいて、自分には何一つ返してやることのできるものなど無いのに。
―――どうしてこんなにも好きなのだろう。
「なおえ……」
高耶がフェンスに両手をついて俯いたとき、
「―――どうしましたか、姫」
背後から、ふいに声がした。懐かしい声が。
「どうして泣いているの―――?」
高耶は顔を上げたが、振り向かず、ずっと昔のように、子どもじみた呟きを返した。
「ひめはなおえのおよめさんになりたかったんだ」
「……そう」
コツ、と一歩、背後の人影が近づく。
「でも、ダメなんだって。男はおよめさんにはなれないんだって」
「そうですね」
コツ……
「だから、ひめは考えた。けっこんできなくてもいいから、いっしょにいたい……って」
コツ……
「それなのになおえはいなくなった。ひめはさみしくて泣いた。目がまっかになるまで泣いた」
コツ……
「ひめは決めた。なおえをおっかけよう、って。
なおえのそばにいきたくて、ひめはがんばったんだ。ここまで来たんだ」
「……姫」
コツン、と足音が止まった。高耶の一歩後ろに、大きな人影が佇む。
「でも、ひめがさがしていたなおえはいなかった。ずっとおいかけてきたなおえはどこかへ行ってしまって、ここにはいないんだ。
ひめは、もうつかれちゃった。なおえは、もう、どこにもいないんだ……」
「……姫……」
「かっこよくて、仕事がバリバリできて、誰にでも好かれてる直江はいるけど……ひめのことだいすきって言ってくれたなおえは、もういない。ひめだけのなおえは、もう」
「……姫……高耶さん……」
「さみしいよ……」
「高耶さん!」
俯いてしまった高耶を、背後から伸びた腕が抱きしめた。
「な……っ」
「私のおよめさんになってくれますか、姫。今でも、頷いてくれますか」
広い胸に背中を預けて、すっぽりと抱きすくめられて、鼓動が急に激しくなった。
「なお、え……」
「直江は今も昔も姫が大好きです。姫、いいえ、高耶さん……俺は、あなたをずっと前から愛しているんです。あなたが思っていたよりもずっと深い意味で、愛してきた」
「ぅ……そ……」
「嘘なんてつかない。直江が嘘をついたことがありましたか、一度でも」
「ない……」
「今だって本当です。俺の目を見ればわかるはずだ」
その言葉を聞いて、高耶は無理矢理後ろを振り向いた。
出会ったのは、昔とは違う、熱い想いをたたえた瞳。それまでは抑えてきたらしい想いを、一切セーブすることなく前面に押し出した瞳。
「オレは、直江を好きでいていいのか……?直江をこれからもオレだけのものにしたいって言ってもいいのか」
高耶はその瞳の熱さに胸を焼かれながら、信じられないという表情で唇を動かした。
その唇のすぐ傍にくちづけて、直江は微笑む。
「あの日、櫻の下であなたの小さな手を握ったときから、俺はあなただけのものです」
「なおえ……っ」
目を見開いていた高耶は、やがて、相手の首にかじりつく。
その、立派に成長したすらりとした背を、かつての守り役は今度は恋人として抱きしめる。
姫はいつだって、傍にいる騎士を愛していた。いつか彼が垣根を越えて自分を攫ってくれるのを待ちながら。
その人が去って初めて、自分の我が侭さに気づいて、後悔して、そして姫は自らその人を追いかけることを決心する。
そうしてようやく探し当てたその人へ、今度こそ対等な言葉で愛を告げるのだ。
もしかしたら騎士は自分が去ることで姫の気を引こうとしたのかもしれない。ささやかな罠をはって、姫を待っていたのかもしれない。
―――けれど、そんな野暮は言いっこなし。
御伽話の結末は、いつもハッピーエンドなのだから。
一晩明けて、昨夜の冷戦状態が嘘のように仲の良い新入りとその教育係の姿を見た同僚たちが、色々なことを取り沙汰しても、本人たちには全く気にならぬこと。
それがかつての彼らの当たり前の姿であったから、鈍い姫は何も気にせず、聡い守り役は敢えて姫に恥じらわせるつもりもなかったから聞き流す。
さて、相手を捕らえることに成功したのはどちらの方であったのか。
捕らえたつもりで捕らわれたのは、さて、姫であるのか。守り役であるのか。
相変わらずの可愛い我が侭に文句も言わず付き合う男を見て、真向かいのデスクにいる口の悪い同僚が一言、
「結局尻に敷かれてんじゃねーか。じいやさん」
それに対して男が返した言葉は、姫には内緒にしておこう。
生憎と、オフタイムの我が侭はもっとずっと可愛いのさ―――