は なも とにて、は る
花の下にて、春


怯えながらもその人の名前を呼ぼうとした口が、急に塞がれた。
ほんの一瞬のことだったのだろうけど、ひどく長い一瞬だった。

「……ぇ?」
高耶が反射的に目を開いたとき、そこにあったのは記憶にあるよりもずっと男らしく渋みの増した、その人の顔だった。
先ほどまでのあの凄まじい怒りの色はどこにもなく、その瞳は苦笑に似た笑いをたたえている。
「驚いた顔だ。キスの経験は……あまり多くないようですね」
「……はじめて……」
意識がどこかへ飛んでいったような状態で、問われるままに答えた高耶は、次の瞬間その言葉の意味に気づいて目を見開いた。この人は今、自分にキスしたのか !? 

「……ほら、こんな風にあなたの大切な『初めて』を奪ってしまう」
一方、高耶の答えに深いため息をついて、直江は苦笑をいっそう苦くする。

「俺はあなたが大好きですよ。今も昔も。
 最初は、泣いていた子どもが自分にだけ懐いてくるのがとても嬉しくて。次いで、どんな小さなことにも目を輝かせて挑戦する姿が眩しくて。知っている限りのことを教えてあげたくて、守り役を引き受けた。後悔したことなんてただの一度も無い。
 あなたは俺の一生を狂わせただなんて言いますが、とんでもない話だ。俺はあなたの小さな手が俺を探すから、生きてこられたんです。あなたの家にもらわれなければ経済的に生きてゆけなかった。そして、あなたという存在がなければ精神的に生きてゆけなかった。
 わかってください。あなたがいるから今の俺があるんです」
 直江は目を見開いて自分を見上げる人を、どんな言葉でも言い表せないほど優しい瞳で見つめた。
「あなたを恨んだとすれば、十一年も一緒にいて全く気づいてくれなかった鈍さにでしょう。俺の目は一度だってあなたを疎んじたことはなかったはずだ。自分の人生の邪魔だなんて、一度も語らなかったはずだ。
 俺の目や言葉は、何をあなたに語りかけていましたか。思いだせない?」

 直江の瞳は、その泣きたくなるほど優しい鳶色は、そう、高耶の知る昔の直江そのままだ。
 この瞳は何を言っているのだろう。高耶を十一年間見守り続けた瞳は、何を語り続けただろう。

「なおえは……ひめが、だいすき……」
 高耶の唇がゆっくりと動いて、かつて何度も聞いた言葉を紡いだ。
「そう……俺はあなたに愛情以外の何物をも向けなかったはずです。
 どうして気づけなかったの。それとも、それが当たり前すぎて改めて意識することがなかったせいですか」
 直江は呆然とした表情のまま固まっている高耶の頬を、そっと手のひらで包むようにした。
「あなたのどんな言葉も、表情も、仕草も、眼差しも、俺にとっては愛しいだけだ。泣いていたあなたも、拗ねるあなたも、何かをやり遂げて嬉しそうに瞳を輝かせるあなたも。
 俺からあなたへ与えることのできたものなんて、溢れるほどの愛しさだけだ。一方通行でいい、ただ向けることだけを許してもらえればいい。そういう愛情でした」

 直江の瞳は昔を詫びるように僅か翳った。

「あなたを離れたのは、自分の立場をいいことにあまりにもあなたを独占しすぎていることに気づいたからです。あなたに色々なことを教えて、その初めての成果を全て俺が見続けてきたから、もうそろそろ身を引くべきだと思ったんです。傍にいればいるほど、与えるだけで満足できなくなることは目に見えていたから。
 あなたに俺というたった一つの選択肢しか提示しないような歪んだ状況はそろそろお終いにして、あなたの意思で広い世界を選び取ってもらいたいから」

「……」
 何かを言おうとして、けれど言葉が見つからないという表情をする高耶を、直江はいいからと首を振って自分の言葉を続けた。

「あなたを愛するのは俺だけではない。あなたの家族も、友人も、これから知り合うたくさんの誰かも、あなたを愛している。そのことを俺はあなたに教えずあなたを籠の中に囲っていた。俺一人が、あなたへ愛情を与える役目を独占していた。……それを、終わりにしなければと思って俺はあなたの高校入学を節目にしたんです」

 直江は高耶の頬に添えていた手のひらを外して、ぽんと相手の肩を叩いた。
 もしも俺があなたを突然去ったことであなたを却って縛ってしまったのなら、もういいから、何も罪悪感なんて感じることはないから、あなたのいるべき場所へ戻りなさい―――と言って、直江は高耶から全ての手を離した。
 高耶は離れた手をひどく悲しい目をして見ていたが、

「俺は姫と共に歩むべき王子じゃない。俺はただの守り役だ。良くて騎士です。姫を独占する者ではなくて、後ろから見守る役目の人間です」

という台詞を聞いて、キッと相手を睨み上げた。

「―――ひめはおうじなんかほしくない!」
 何もわかってくれない相手への怒りに震える拳が、平手となって男の頬を打った。

 涙に濡れた瞳で男を睨みつけると、彼はそのまま走って出て行ってしまった。


 高耶が走り去ったとき、すぐさまその後を追おうとして、直江はふと思いとどまった。こういうとき彼ならどこへ行くのか、想像がついたからだ。そこへ迎えに行く前にまず、自分自身の気持ちを整理しなければならない。
 相手を本当に愛しているのだと素直に伝え、奪ってしまうか。
 それとも、物分りのいい保護者に徹して宥めてやるか。

 直江は苦しげに唇を噛んで、しばし佇んだ。

next*
*back
04/03/24

server advertisement↓