は なも とにて、は る
花の下にて、春


「一体どこへ行っていたんです !? 」
 真夜中を過ぎてようやく元の部屋へ姿を現した青年を迎えたのは、署の建物中の全ての場所を探しつくしてもその姿を見つけられず、憔悴した表情でデスクに戻っていた男の怒声だった。

 困ったような表情でしか自分を見なかった男が、初めて感情をあらわにした怒りの表情を見せていることが、青年を驚かせる。そして、彼は自分でも意外に思ったことだが、相手の鋭い眼差しに耐えられず目を逸らしてしまった。

「どこ、って……コンビニです。着替えと夜食を買いに」
 視線を彷徨わせながら呟くように返事をした彼へ、男は怒りを全身に帯びた状態でつかつかと歩み寄ってゆく。
(ぶたれる…… !? )
 青年が、ひしひしと伝わるその凄まじい怒りに身をすくませた瞬間、彼を襲ったのは男の容赦の無い平手ではなかった。
「……!」
 目の前まで歩み寄ってきた男は、両腕を広げて、青年をきつく抱きすくめたのである。
 驚いて目を見開いた青年の手から、コンビニの袋がどさりと落ちた。


「それならせめてメモくらい残してください……心臓が止まるかと思った……」
 直江は息子を心配する父親のように、否、それ以上に強い調子で高耶を抱きしめた。
 広い胸に相手の顔を押し付けて、両の腕を相手の背に回して、抵抗することを許さない強い力で、相手を閉じ込める。
「……なおえ……」
 その容赦の無い強さ、そして心の底から搾り出すような声音こそ、高耶の知っている男の姿だった。
 高耶は、自分を探して走り回ったらしい直江の汗ばんだ匂いに包まれて、昔のような頼りない声で彼を呼んだ。
「オレを……探してくれたのか」
 高耶の手が、ぎこちなく相手の背へと添わされる。
 ようやく、彼を包み込んでいた鋼鉄の鎧が消えてなくなった瞬間だった。

 直江はその変化をどう受け止めたか、大きなため息をついた。
「非常階段も屋上も倉庫も他の課も警備室も、全部探しました。……あのときのように、櫻の下に隠れて泣いているのかと思ったから」
「っ……」
 カッと紅潮して暴れ出そうとした体を、容赦なくその腕が締め上げる。
「あのとき、櫻の下で泣いている男の子を見つけなかったら、俺の一生は全く違ったものになっていたでしょう」
 直江はその昔語りの人の成長した姿である青年が、自分の腕の中でハッと気配を変えたことに気づいた。

「……オレのせいで、お前の一生は狂わされた、そう言いたいんだろう……?」
 高耶はわざと冷ややかな声を作って言ったが、その言葉はまるでそれが真実であってくれるなと祈るかのように、震えていた。
「あのときオレがお前に懐いて離れなかったから、お前はうちに引き取られることになった。……お前の頭脳を生かすことができれば、もっと他にいくらでも道があったのに、オレのお守り役なんて面倒な仕事を押し付けられて。刑事なんて因果な職業以外選べなくさせられて。
 だから怒ってるんだろう?だからオレの顔なんか見たくもないんだろう?一言も言わないでオレの前から去ったんだろう……?」
 震える声で彼は自分の大好きな守り役に訊ねた。もし肯定されたら立ち直れないくせに、もうこれ以上他人の顔なんかできない、と、つらい問いを投げかけるのだ。

 七年もずっとその背を追ってきた。
 実家が警察一家だからこの道を選んだわけじゃない。周りに褒められたくて懸命に勉学をおさめたわけじゃない。武道だってそうだ。祖父や叔父の期待に応えるために歩んできた道ではない。
 いつだって、自分が頑張るのは、褒めてもらいたいのは、この人なのだ。字を習って、剣を習って、弓も、学校の勉強も、うまくいったとき最初に報告したのは、この人だ。よくできましたねと微笑んでくれるのが嬉しくて、がんばりましたねと頭を撫でてほしくて、ごほうびに一緒にでかけましょうと手を繋いでくれるのが待ち遠しくて。
 小学校に上がっても、中学校に上がっても、口うるさい守り役に駄々をこねてみせることはあっても決して疎ましいとか嫌いになるとか、そんなことは起こらなかった。
 直江は厳しい指導者であると同時に、とても優しくて理解のある保護者だったから。
 間違ったことは一つも言わない。過度な期待もしない。一定のことを教えた後は、こうしなさいと道を示すことをせず、何かおかしなところがあるときだけ後ろから訂正してくれた。
 のびのびと育ててくれた。
 四歳の時から十一年、この人はつかず離れず、大きな翼を広げて自分の傍にいてくれたのだ。
 これからもずっと、きっとこうして傍にいてくれるのだと思いこんでしまったほどに。
 ―――でも。

「お前が黙っていなくなったのは……オレが我が侭ばかり言ったからだろう……?」

 高校の入学式の朝に、行ってらっしゃいと送り出されたのが最後だった。
 中学までは式にも参列していたのに今回は来ないのか、と首を傾げたのは、決してただの気のせいではなかったのだ。帰宅したら、家の中がいつもと違っていた。家具の配置もカーテンの色も何一つ変わってはいないのに何故だろうと不思議に思ったのも束の間、いつものように自室に鞄を置いて隣の部屋へ入った瞬間、目の前が真っ白になった。

「お前がキャリアじゃなくてノンキャリアの所轄署勤めを選んだのは、オレのお守りを続けるためだったって……じい様が言ってた。中央に配置されたら必然的に家を離れることになるから、地元にい続けられるように所轄署を希望したんだって。
 お前はオレのせいで雁字搦めにされて、何も望めなかったんだ。出世も、能力を生かせる職場も、何もかも取り上げられて、オレのせいで犠牲にして……」

 だからこの人がオレを置いて出て行ったのは当然なのだ。もう高校生ともなればいいかげんお守りも必要ないだろうと、長い務めを終えてようやく一人になれたのだ。
 それなのに、今頃になってまたオレが目の前に現れた。いい加減うんざりして当たり前だ。どこまでついて来る気だ、もう勘弁してくれと思って当然なんだ。
 オレは必死になって追いかけてきたけれど、この人にとっては迷惑以外の何物でもないのだ。そんなこと、わかりきっていたはずなのに。

 突然の別離から七年。傍にいきたくて、それだけのためにこの道を選んだ。大好きだった人がふいに消えてしまってどんなに寂しかったか。
 この人がまだ家にいたころだって、彼が大学を出て刑事になってからは、忙しさのせいで殆ど家には落ち着いていなかった。それでも、休日には顔を合わせることもできた。そうやって交わすちょっとした会話がとても好きだった。それが相手のどれほどの犠牲の上に成り立っているのかを自分は考えもせずに。ただ好きだった。当然のもののように受け取っていた。

 勝手に直江の部屋に入って長い時間を過ごしたこともある。部屋の主は滅多に帰ってこないから、存分にあの柔らかな空気が漂う部屋を使えた。
 でも、この人がいなくなってからはまるで家が何倍にも広くなってしまったようにがらんとしてしまった。寂しかった。
 直江が使っていた部屋を自分の部屋にしてもらったけれど、あの柔らかな独特の空気はもうどこにもなかった。直江がいない、それだけのことが、あんなにも大きな空洞だった。

 ―――そして思い知ったのだ。どれほどこの人に満たされていたのかを。

 四歳のときに出会い、それからずっと遊び相手になってくれた。『私の姫』と呼んで、本当のお姫様のように大事にしてくれた。優しくて、温かくて、辛抱強くて、どんな我が侭でも聞いてくれた。構って欲しいがために吹っかけた無理難題を一つ一つ一生懸命に叶えてくれた。
 本当に好きだった。ひめはなおえのおよめさんになる、が口癖だった。
 本気だった。
 小学校に上がって、男同士では結婚できないのだと知ったときは、ひどく悲しかったことを覚えている。そのうちにあれは子ども特有の愛情表現だったのだと思うようになったけれど、やっぱり一番好きな人間が直江であることに変わりはなかった。
 その人がいなくなって、初めて気がついた。自分の気持ちは四歳のときからずっと変わっていない。この人のことが好きなのだと。死ぬまで一緒にいたいと願っている自分を知った。
 周りの男たちが自分の好きな女の話をする傍らで、思い出すのは直江のことだった。これが恋というものだと、わかった。
 だから―――この道を選んだ。直江のいる場所に少しでも近づくために。一生懸命に追いかけてきた。

 どこまでも自分の我が侭にばかり忠実な、愚かなこのオレ。
 誰が見ても呆れるだろう。長い人生の最初の大半を付き合わせ、そしてようやく自由を得たその人の前に性懲りもなく姿を現して。
 どうして考えなかったのだろう。なんて独りよがりな行動なのか。


「そうだ、と言ったら……あなたは納得するんですか」
 直江は高耶の声の震えに気づいているのかどうか、ひどく平坦な調子で口を開いた。
 高耶がその腕の中で堅くなる。やはり直江は怒っているのだと。自分の罪を裁かれる時が来たのだと。
 しかし、相手の言葉はゆっくりと熱を帯びていった。
「俺があなたといた十一年を、あなたはそんな風に思っていたんですか」
 高耶を責める声であることは間違いない。その言葉を詰っているのは確かだ。
 だが、事態は高耶の思っていた方向とは大きくずれたところへ堰を切ったようだった。
「俺がこの街に固執したのは長官に約束した義務を果たすためだったと、あなたは思っているんですか。
 他ならぬ長官自身が俺をキャリアに抜擢しようとしたのに?それを蹴ったのが、あなたに義理立てしたせいだと言うんですか。自分の意思を曲げて?出世を諦めて指をくわえて同僚たちを眺めていたと?そしてあなたを恨んだ?」
 直江の声音は段々突き刺すように昂り、高耶は見たこともないその怒りの色に怯えた。
「なお、え……?」
 彼が心もとない様子で相手の名を呼んだのをきっかけにして、直江はぐいと腕の中の体を引き剥がした。

「なぉ―――」

 今度こそ本当にぶたれるのかと目を瞑った高耶は、次の瞬間一体何が起こったのかわからなかった。
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04/03/23

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