は なも とにて、は る
花の下にて、春


「……私があなたの教育係になるとは、驚きましたよ」

 今日は新人の彼に署内を案内してやりなさいと命じられて、直江は二人で廊下へと出て行った。
 他の人間の目が無くなったところで、彼はため息混じりに青年へ声を掛けたが、相手の反応は素っ気無い。
「オレは今はあなたの部下です。敬語は使わないでください」
 堅い表情で視線も合わさず、青年はそう返事をした。
 直江はそんな相手の様子に少し不思議そうな眼差しになったが、首を振って続ける。
「そういうわけにはいきません。あなたは今でも私の大切な『姫』です。大恩ある長官の跡取りでもあるあなたに、どうして偉そうに上司面ができますか」
 彼は、旧知の間柄である相手へ昔と同じように呼びかけたつもりだったが、相手は却って態度を硬化させたようだった。
「オレは『姫』じゃない。止してください、その呼び方は」
 眉の角度を跳ね上げて、秀麗な顔に明らかな苛立ちを浮かべた青年は声を堅くした。直接に直江を睨みこそしないものの、その瞳は少し逸らした場所を腹立たしげに射抜いている。
「これは、すみません。……でもね、決して子ども扱いするつもりではありません。あなたはとても立派になりましたよ。七年で、見違えるように」
 直江は相手の苛立ちを見て取るとすぐに謝罪したが、その瞳は昔を見つめるように優しく細められて相手へと向けられている。
 しかしその眼差しも、青年の身にまとう鋼鉄の鎧の前には効力を発揮しなかった。
「それはありがとうございます。もういいですから、本題に戻ってください」
「……はい」
 直江は頑なな青年をそれ以上刺激することなく、小さな吐息で会話を終わらせると、上の階を案内するために階段へ向かっていった。



 その日、直江は宿直に当たっていた。
 当番制における彼の元々のペアは、真向かいのデスクの千秋修平だったが、直江が新入りの教育係に任ぜられたということもあって、千秋はさっさと帰ってしまった。これから課での諸々の機構を教え込まなければならないのだから、どうせなら当番も同じ組にした方がよかろうと言うのである。
 直江は苦い顔をしていたが、相手の言い分は至極もっともなものであったので、異論は唱えず帰宅を見送った。
 そんな直江の様子を、新入りの青年は後ろからそっと見ていた。ひどく鋭い眼差しで。

 課のデスクについている人間は夜が更けるにつけて一人二人と減ってゆき、そしてとうとう宿直の直江と高耶だけが残ったが、広い刑事課の部屋に二人きり机を並べた彼らに―――会話は無かった。
 二人が二人とも、手元に視線を落として忙しく頭を働かせている。少なくとも、傍目には。
 彼らは内心では何か全く仕事と関係の無いことを考えているのかもしれないが、それを外側から窺うことはできそうにもない。

 ポーン……

 一体いつからそこにあって、誰が据えたものなのかもわからない、この忙しい職場にはいかにも不似合いな古めかしい振り子時計が、23時を報せた。

「……仰木さん」
 その音をきっかけにしたように、直江が顔を上げた。
「何でしょう」
 話しかけられた方は視線も動かさず、ただ声だけで答えている。
 そんな高耶は、しかし次の台詞には無関心ではいられなかった。
「もうこんな時間です。終電が無くなるといけないから、そろそろお帰りなさい」

 自分につけられた教育係の、この気遣いを、彼は何を言うという表情でキッと撥ね付けた。
「自分は今日ここに配属されたばかりの新入りです。宿直も学ぶべきものの一つです。今日は家には戻りません。
 お気遣いは無用です」

「……そうは言っても、今日ここへ来て突然宿直だなんて言われても困るでしょう。着替えも用意していないでしょうし、それに、連絡も入れないでいたらご家族が心配しますよ」
 男は僅かに瞳を曇らせて続けたが、
「着替えくらい自分で調達します。それから、オレは今は一人暮らしなので家族に気兼ねはいらないんです。
 とにかく、オレはここに残りますから。何も気にしてくださらなくて結構です」

 素っ気無く言い切った青年はすぐに自分の手元へ視線を戻してしまい、後には困ったように視線を泳がせる男だけが残った。

 まるでいがみ合ってでもいるかのようにトゲトゲした空気を帯びて並んでいるこの二人の人間が、かつてはまるで兄弟のように仲が良かったのだと、この姿を見て想像できる者は少ないだろう。
 一体どんな確執があって、これほどこじれてしまったのだろうかと周りの人間は首を傾げているが、実のところ、二人の間には何ら拘るものはない。―――少なくとも、それぞれは相手をそう捉えていた。



 耐え難い沈黙の時間が長く続いたのち、直江が手洗いに立ったとき、広い部屋に残された高耶は初めて全身の力を抜いた。

「直江……」
 彼は椅子から立ち上がると、小さく呟いて、隣のデスクの前に立った。
 人の体温が残る椅子に片手を触れて、彼は俯く。
「直江……お前はオレのことなんかとっくに忘れてるんだな……」

 昼間のお披露目のとき、自分の教育係に指名されたあの瞬間、直江の顔は一瞬だが確かに曇った。
 本当に久しぶりに会うというのに、笑みの一つも見せてくれないで、あんな風に拒絶の色を浮かべた。

「オレなんか……お前にとっては何でもない存在だったんだ。むしろ邪魔だったんだ。
 ……こんなとこ、来なきゃよかった……」
 俯く青年の鼻先から、小さな雫がぽとりと落ちた。
 その雫は椅子の座面に落ちて丸いしみを作る。



 一方、手洗いに立った男は、青白い照明の下、鏡に映る自分の顔を見て自嘲めいた笑みを浮かべていた。
「思ってもみなかったことになったものだな……」
 鏡の中の自分はひどい顔をしている。大切だった人を再び目の前にしているのに、まるで喜びよりも厄介ごとが増えたかのような暗い顔だ。
 直江は鏡に拳をついて、俯いた。
「俺はあの人のいるこの街にいられれば、それでよかったんだがな」

 それがまさか、こんな形で再び傍に在ることになるとは。
 しかもあの人が俺の下につくなどという、信じがたい関係で。
 あの人が頑ななのも当然だ。かつての使用人に『教育係』などという肩書きを当然のように振りかざされて手出し口出しされるなど、彼の誇りが許すまい。
 誰がこんなことを仕組んだのか、そんなことは明らかだ。こういう悪戯をするのは、彼の祖父くらいのものだろう。彼自身がこんな人事を望むはずも無いから、彼が故意にここへ配属されたのはおそらくあの前長官の指示なのだ。
 苦境に耐えろと彼を谷底へ突き落としたつもりなのか、それとも俺があの方の勧めを蹴ってノンキャリアで警察入りしたことへの意趣返しなのかもしれない。

「大恩あるあなたとはいえ、恨みますよ……」
 直江は鏡の中の自分へ向かって、僅かに唇を吊り上げた。ひどい笑いだった。



 高耶は着替えを調達するためにコンビニへ向かおうと部屋を出た。
 できるだけあの部屋へ戻るまでの時間を稼ぎたくて、エレベーターは動くのにわざわざ階段を使う。
 ひとけのない非常階段は自分の靴音だけが規則正しく響いて、何だか悲しい。
 途中の階で、ふと喉の渇きをおぼえた彼は自動販売機の並んでいるコーナーを目指した。昼間に直江に案内された際の記憶を辿りながら。
 さして迷うほどでもない広さの建物である。彼はすぐに目当ての場所へ辿り着いた。
 コインを入れて、ディスプレイを眺める。
「―――あ、これ」
 彼の指は或る一つのボタンを押した。
 ゴトンと音をたてて落ちてきた缶を拾い上げ、タブを起こす。
 口をつけて傾けると、黒い液体が喉へと流れてくる。

「……苦い」
 高耶は口を離して、俯いた。
「やっぱり苦いよ、直江……」

 無糖のブラックは、かつて大好きな男が好んで飲んでいたものだった。それを一口もらって、その苦さに自分はよく顔をしかめた。

「うっ……く……」

 こんなにも、味覚は変わっていないのに、人の心はとっくに変わってしまっている。
 もう自分の大好きだったあの男はいないのだ。自分だけのものだった男は、もうきっと他の誰かのものなのだ。自分の存在など、遠い昔の不要な思い出の一つでしかないのだ。

 高耶は苦いコーヒーを手に握ったまま、長い間そこに佇んだ。



 戻ってきた男は、青年の不在に驚き、次いで自分のデスクに点々と落ちている水滴に気づいた。水滴の理由を考え、はっとその表情が引き締まる。
 彼はすぐさま部屋を飛び出した。
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04/03/22

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