この季節になると思い出す。
自分自身も泣きながら、小さな手で俺をつかまえた、幼い男の子の思い出を。
 は な も とにて、は る
花の下にて、春
「聞いたか?お前のおひいさんがここに来るってよ」
 同僚の千秋修平が、昼食を摂っていた直江信綱に、自らは食後のコーヒーを啜りながら声を掛けた。

 処は、とある地方警察署の刑事課の一室。
 決まった時刻に食事を摂ることのできない忙しい職業に従事する男たちは、めいめいが空いた時間を見つけて、食堂や各自のデスクで食事を摂る。それも、即席麺であったり、コンビニ弁当であったりと、甚だ不健康な食事を。
「そうか」
 同僚の言葉に僅かに首を傾げて、例に洩れず不健康な食事を摂っていた直江はすぐに再び箸を動かし始めた。
 コンビニ弁当はそれほど味が悪いとは言わないが、得体の知れない添加物がラベルに記載しきれないほど沢山含まれているという事実が恐ろしい。
 しかし、独り身で愛妻弁当を持ってくるあてもない、昼夜を問わない忙しさの職業についている男にとっては、遠い将来に自分を蝕むかもしれない添加物よりも、目の前にある生存のほうが余程重要なのだ。
 男は黙々と箸を動かし、同時に目は現在担当している事件の資料を追っていた。

「ふん。予想してたって顔だな。七年もろくに連絡を取っていないくせに、さすが『じいや』は『姫』のことには勘が働くってか」
 男の向かいにある自分のデスクにどっかりと腰を下ろしての千秋の台詞は、端で聞けば絡んでいるようだが、本人は別段そういうつもりがあるわけではなく、これがこの男の地なのである。
 対する男は相手のそういう物言いには慣れているから、気を悪くした風もなく、視線の方向と動作はそのままに、言葉だけで返事をした。
「そういうわけでもない。ただ昔からあの人は言っていたから。自分はお父さんのような立派な刑事になるんだ、と」
 手早く弁当を空にして食後の茶を啜りながら、ノンキャリアとしては早いペースの出世で現在警部補の地位にある男は答えた。

 それは何気ない台詞であったし、至極真っ当な意見であったが、男の特別な立場を知る同僚は簡単には引き下がろうとしない。

「あの家に生まれた以上、刑事になるって道は赤ん坊でも想像がつくくらい明らかなこった。そうじゃなくて、この署のこの課にくる理由さ」
 『おひいさん』の境遇を知る彼は、飲み干したコーヒーのカップをデスクにドンと置いて、真向かいの直江をじっと見た。
 その目は随分と真剣なものだったが、対する男は取り合わない。
「自分の住む街の署を選んで何が不思議だ。それに刑事課はあの人の当初の希望だろう。血筋からいっても全く無理のない人事だ」

 あくまで第三者的な答えしか返そうとしない直江に、
「あ〜はいはい、わかったよ。てめぇが知らん顔するときゃ俺がいくら聞いたって答えやしねぇよな。もういい」
 彼が一見穏やかそうに見えて実はとても心の壁の厳しいことを知っている千秋は、大げさな仕草で肩をすくめると、それ以上の追求を諦めて自分の仕事に戻ったのだった。



 数日後、正式な人事異動の発表があり、件の青年がこの署へとやってきた。
 その青年の生家は、祖父、叔父がそれぞれ前警察庁長官と現警視総監という究極の警察一家である。彼自身もこの春に旧帝大を優秀な成績で卒業して国家一種を取得したキャリアで、ゆくゆくは祖父と叔父に次いで総監もしくは長官を継ぐであろう筋金入りのサラブレッドだ。
 そんな人物がなぜこのような地方署の刑事課へ配属されたのかを不思議がる声は少なくない。普通のキャリア官僚が警視庁以外の所轄署へ回されることでさえ、あまり例のない事態なのである。それが、警察機構の頂点に君臨する人物を代々輩出してきた家の跡取りともなれば、この状況が如何に珍しいことか簡単に想像がつくだろう。
 たとえばこれがそれなりに年季の入った人物であるのなら、何かまずいことをやらかして左遷されたという可能性も考えられるが、件の青年はまだ大学を出たての新人である。まずいことをやらかしようがない。

 一体どういうことなのだろう、と、署長に案内されて刑事課のデスクへやってきた青年を見る人は皆、不思議そうな眼差しを彼に向けている。

 そんなざわめきを一喝して、署長が彼を皆に紹介した。
「静かに!こちらがこの春ここへ配属になった仰木君だ。みんな、よく面倒を看てあげるように」

「仰木高耶です。まだ右も左もわからない状態ですが、色々なことをその都度吸収してゆくように努めますので、よろしくお願いします」
 青年は武道に通じた人間らしく美しい所作でお辞儀をした。
 部屋の中に拍手の音が響いて、先ほどよりも少し和やかな空気が辺りを満たす。
 そこへ、満足そうに頷いた署長が、言葉を続けた。

「いつものことだが、配属して一年目は相談相手として教育係をつけることになっているね。今回は直江君に任せることにする。よろしく頼むよ」

 周りの人間に雑じって何気ない顔で新人のお披露目を見守っていた直江は、唐突に任された役目に僅かに眉を寄せた。
 ざわついた周囲の視線が彼へと流れてゆくのを、意味ありげな目つきで千秋が見守っている。
 そして、当の青年もまた、どこか鋭い光を帯びた目を、自分の『教育係』へと向けていた。

 ―――どうして直江さんなんだ?
 ―――知らないのか?あの人は……なんだぞ
 ―――なるほど、それはまた、大層な因縁だな

 ―――さて、お前はどう出る?また、おひいさんのじいやになってやるのか?


「……わかりました。私にできることなら何でも教えましょう」
 三種の視線をその身に注がれた直江は、先ほどの眉間の皺を一瞬で消すと、いつものポーカーフェイスに戻ってその特別任務を承った。

 周囲のざわつきが、さもありなん、とばかりに揺れる。
 そして、特別な視線で直江を見ていた二人もまた、それぞれ異なる光を瞳に映していた。

「では仰木君のデスクは直江君の隣に。悪いが武藤君はあちらのデスクへ移ってくれたまえ」
 署長は頷くと、直江の隣のデスクについていた男を別のデスクへ移動させて、新入りの青年を空いたその席へと割り当てた。

next*

04/03/21

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