海よりも蒼く、空よりも藍いブルー
「―――ッ……」 一枚目の羽が根元から切り落とされると、体を離れた羽は即座に泡となって消えた。 生きたまま羽を切り落とされる苦痛は正視できないほどだったが、傷口から血は流れなかった。不思議なことに。 そして、背中側にいる高耶には見ることができなかったが、一枚目の羽が体を離れると共に、人魚の閉ざされていた瞼の片方が、ゆっくりと開かれた。外気にさらされても目を開いていられるようになったのだ。 海の水に黄金を溶かした綺麗な琥珀の瞳が、未だ暗い海に漂う月の光を初めて水の上から捉えていた。 「なおえ……っ……もぉ、いやだ……こんな思いして、もう一枚の羽も切らなきゃならないのか……!」 苦痛の叫びこそ聴こえなかったが、そもそも人魚の声は心話を使わない限り聴こえない。もしもあらん限りの声で叫んでいたとしても自分には聞き取れないのだ。 背に脈が浮かび上がるほどの苦痛をこらえて羽を切らせた人魚の姿を、一度ならず二度もまた見なければならないのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。 ぼたぼたと涙をこぼしながら呻いた高耶に、片羽の人魚が声を掛けてきた。 『ここから見る月は……とても綺麗ですね』 「なおえ!目が !? 」 高耶は目を見開き、直江の顔を覗きこんだ。 見れば、片方だけだが瞼が上げられ、海の中で見たあの綺麗な琥珀の瞳が自分を見つめている。 高耶の瞳にまた涙が浮かび上がった。 『羽と引き換えに目が開いたようです。 ……片目でもこんなに綺麗なのだから、両目で見ることができたらどんなにか綺麗でしょうね』 「なおえぇ……」 瞳が溶けるのではないかというほど涙を溢れさせている少年の目を、人魚はすぐ傍まで近づいて覗き込んだ。彼の手が、少年の顎をそっとつかまえる。 『私は太陽を背にしたあなたの笑顔をこの目で見てみたいんです。暗い海の中ではなく、あなたに似合う太陽の下で』 だから、私にもう一つの目をください――― 琥珀の瞳が微笑むと、高耶はみっともなく嗚咽してしまいそうな唇を懸命に引き結んで、短剣を握りなおした。 もう一枚の羽も、そして、泡と消えた。 人魚はその上半身が陸上に耐えうる体と変わっていた。二つの目はしっかりと開いて目の前にあるものをすべて映し出している。 かつての己の住処であった海、今そこから去ろうとしている故郷を、陸の上から見ている。 その広大な青の『大地』と引き換えに得ようとしている、一人の少年の姿も。 琥珀の瞳に、黒の瞳が映る。 『ありがとう。後は、脚を。あなたの隣を歩くために、私に脚をください』 羽をなくした人魚は、海の民を捨てる最後の一つである尾びれを、短剣を手にして膝をついている少年の足元へ差し出した。 「ごめん……ごめんな、オレを助けてくれたお前の脚なのに……」 透明な鱗に覆われ、ぬるりとした感触の、深いブルーの魚の半身を、高耶は何度か撫でた。 ありがとうの代わりに、手のひらでその『脚』をいたわる。 愛しさと悲しさと申し訳なさとを手のひらで伝え、そして彼は魚の体の一番先にある、熱帯魚のようなひらひらとした尾びれに手を掛けた。 「これも……泡になって消えてしまうのかな……」 水で編んだ絹のような、この優雅な尾びれも……。 『海の理は海へ還るものですから。私はあなたのように大地を踏みしめて立つ足も同じ重さで美しいと思います』 少年の震える手が、薄く柔らかい尾びれをしっかりと握った。 魔女に与えられた短剣が、最後の役目を果たすべく、青い鱗に覆われた魚の体とひらひらした尾びれとの境へ押し当てられる。 ぷつり、と尾びれが切断され、海の水の中へ落ちたとき、俄かに波が荒立った。 驚く間もなく、暗い海の水が二人に襲い掛かる。 ざばり、とたった一度なめただけの波だったが、その一瞬に二人を襲ったのは、恐ろしい言葉だった。 《愚かな息子よ。行くがいい》 《海の守りを失い、重い手足を引き摺り、その一歩一歩ごとに激しい苦痛を強いられる陸の生活へ、去るがいい。海と陸の理を超えることの恐ろしさを身をもって知るがいい》 暗い海の水に包まれた二人に聴こえてきたのは、海の皇の呪いの言霊だった。 突然の荒波が浜を舐めたのちに残っていたのは、気を失って倒れている少年と男の姿のみ。 ずぶぬれた体を横たえる少年を守るように腕の中へ抱きこんで倒れている男は、二本の足を持つ人間の姿であった。 |
2004/04/19