海よりも蒼く、空よりも藍いブルー
陸に上がった人魚の体は、理を超えた罰として、過酷な状況に陥っていた。 気力でかなりの部分を耐えているのだろうが、一歩一歩足を進めて歩くたびにその眉はきつく寄せられ、やっとのことで少年の家へ辿り着くと、小さなベッドに倒れこむようにして身を横たえたきり、動くこともできなくなってしまった。 少年は水を汲んできて枕元に膝をつき、濡らしたタオルで甲斐甲斐しく世話をやいてやったが、人魚は苦痛に歪みそうになる顔をどうにかこうにか押さえつけて微笑むことしかできない。 水の中では確かに交わすことのできた心話さえ、今の彼には残されていなかった。 もともと声帯を持たない人魚は、当然のことながら、人と同じ方法で声を出すことはできない。 頭の中で会話する心話すら使えないとなれば、彼には少年と言葉を交わす方法は無くなってしまったのである。 自分は大丈夫だから心配しないで……と安心させてやることもできず、 世話をしてくれてありがとう―――と礼を言うことも叶わず、 精一杯の気持ちを表す方法は、ただ微笑むことしか残されていなかった。 海を捨てた人魚と、陸を捨てようとした少年とは、少年を育てた老婦人の住いであった小さな小屋に、ひっそりと暮らした。 小さな小屋には、台所も居間もない。 部屋の片隅にコンロが据え付けられ、その前にテーブルと椅子が置かれ、反対側の隅の左右それぞれに一つずつ、粗末な小さいベッドがあるだけ。 無人島に逃げ出してきた者がただ密やかに生きて行くために建てたような、小ぢんまりとした隔絶的な小屋だった。 暑い日、少年はコンロで火を起こし、素朴な味の麦茶を淹れる。 海から来た人魚は熱いものが苦手だ。だから、お茶はすっかり冷ましてからガラスのコップに入れてベッドまで持っていってやる。 どうもありがとう―――と、瞳と微笑で伝えてくる人魚に、少年はコップを口元へ寄せてやり、飲むのを手伝う。 ごちそうさま―――と言うのも、琥珀の瞳と微笑。 どういたしまして、と少年は笑顔で応える。 少年もまた、口を利けない男と共に暮らし始めてから、言葉を使わなくなった。 彼が生まれ持った声帯を震わせて言葉を紡ぐのは、人魚が眠りに落ちた後のことだ。 一日のうちで最も月が力を増す真夜中に、彼は密やかにベッドを抜け出して海岸へと向かう。 月に見守られた海へと、裸足で歩いてゆく。 ちゃぽちゃぽと音をたてて、水の中へ入ってゆく。 「海の皇さま」 暗い水面に足を踏み入れ、膝のあたりまで水が来るところで、少年は足を止めた。 一日のうちでこの僅かな時間だけ、彼は喉から声を出す。 彼の呼びかける相手は、海を捨てた人魚に罰を下した海の皇だった。 「海の皇さま、聴こえていますか」 少年は冷たい水に足を洗われながら、懸命に心をこめて海の底へと呼びかける。 毎晩、同居の人魚が決して目を覚まさない短い間だけ、彼は海の皇へ向かって懸命に訴え続ける。 「直江を助けてください。直江にかけた呪いを解いてください。お願いします。オレの命なら差し出してもいい。これ以上直江を苦しめないでほしい……!」 彼の瞳から溢れ出した涙が、ぽたりぽたりと海の中へ落ちてゆく。 「皇さま……!」 海の中へ落ちた涙は、やがて美しい丸い水晶になり、くぷくぷと海の奥深くへ沈んでゆく。 暗い夜のブルーを越え、 深い海のブルーをも越え、 そして海の空のブルーを越えて、 かつて暮らしたブルーの世界へと流れ着く。 そして人の子の流したこの世で最も美しい宝石は、過たず海の皇の手のひらへ舞い降りた。 |
2004/04/21