シアワセノジョウケン
「ん……朝……?」 寝ぼけた眼をこすりながらそんな声を発した高耶は、いつもと違う寝床の感触に一気に覚醒した。 周りを確認して、その瞳が硬直する。 驚愕。 「な……何で……?」 何でこんな…… !? 声にならない声で絶叫する。 彼は直江に抱きしめられる格好で横たわっていたのだった。 処はおそらく直江の寝室。 柔らかい肌触りのシーツを敷いた、適度な硬さの寝台の上。 薄手の掛け布団の中に直江が寝ていて、その腕の中に高耶がいるの図である。 ひどく慌てたはずの高耶がなぜその腕から抜け出そうとしないのかというと、相手があまりにも幸せそうな顔をして眠っていた からだった。 守るようにしっかりと抱きしめられたこの体勢では、どうやっても相手を起こさずに抜け出すことはできない。 気持ち良さそうに眠っているのを起こすのが何だか忍びなくて、高耶は脱出を諦めることにした。 することもないので、相手の寝顔を観察してみる。 寝顔というものは大抵、起きているときよりも幼く見えるものだが、相手のそれはここまで無防備であってさえ、弱みが なかった。 だとしたら、この男の本質は案外、理性的にコントロールされているのかもしれない。無意識の状態でここまで甘えのない 顔をしているのだから、心の底での統制が確かなのだろう。 普段のからかうような微笑が見えない寝顔は、はっとするほど端整で、高耶はわけもなくどきどきする自分に気づいて慌てた。 この顔だけで惚れる女も少なくはないだろう。女誑しで有名な直江だが、それは案外この男から誘うわけではないのかも しれない。 しつこく自分を口説いてくる姿しか知らなかった自分は、これはそういう男なんだと思いこんでいたが、単に据え膳を放って おけないだけなのかもしれないな、と思い直した高耶だった。 ―――そう。口説いてくるのは自分に対してだけ…… ふと浮かんできたそんな思いに、驚く。 自惚れてる。 自分は特別なのだ、と。 この男の『特別』は自分なのだと思った? 何だよこの気持ちは……。 見もしない直江の女性たちへの一人勝手な優越。 これは、何なんだ。 ……。 オレこそ、この男のことを特別視してるみたいじゃないか。 ―――オレはこの男の何になりたいんだろう……。 昨日の直江の態度は、この上なく優しかった。 母親というものはきっとあんな感じだろう、と自分は思う。 同時に、父親を思わせる広い胸は思わずすがりたくなるほど頼もしくて……。 コドモにとっての保護者のように。 そして、女にとっては恋人の甘い優しさを連想させる。 そう、馬鹿な女なら一発で堕ちるくらい、優しくてあったかかった。 「効果抜群だよ……」 うんざりしたような声で小さく呟いたところへ、 「―――何が効果抜群なんですか?」 豊かな低音が頭の上から降ってきて、高耶は仰け反った。 その拍子に、背中へ回されていた右腕を思いきり下敷きにしてしまい、腕の主は顔をしかめた。 「ひどいですねぇ……あ痛たた」 ため息まじりの身振りで痛みを表現した直江に、 「ちょっと踏まれたくらいで音を上げる程度の男だったのかよ? がっかりだな」 ようやく抱擁から逃れることのできた高耶は、身を起こして冷たい一言をくれる。 昨日のしおらしさが嘘のような強気の発言に、直江は少し目を見張った。 がすぐにその瞳に笑いが浮かぶ。 ぷいと横を向いた相手の顔が耳まで赤いのに気づいたからだ。 抱きしめられて眠っていたことへの照れ隠しからきた台詞だったのだ。 本当に可愛いひとだ。 思わず微笑んでしまう。 「そうでしたね。あなたからならどんな仕打ちを受けても喜びになるんでした。嫌われること以外ならね。 殴られようと蹴られようと構いませんよ。どうぞどうぞ」 いちおう本気で言ったのだが、 「……変態」 高耶は相手の正気を疑うような瞳で睨んできた。 「おや。随分な言われようだ。好きなひとに構われるのを喜んで、何がいけないんですか?」 「内容によるだろ !? 蹴られて喜ぶなんて、変態以外の何者でもねーよっ」 しらっとした顔で言い返されて、高耶は憤然と叫んだ。 それでも直江は動じない。微笑みが一層深くなっただけだ。 彼は諦めた。 この相手には何を言っても無駄だ。暖簾よりも手ごたえがない。 そう結論づけて一つため息をつく。 「さあ、そろそろ起きましょうか」 と、相手が身を起こして掛け布団を畳み始めた。 視界に入った自分の格好を見ると、腰や腕を締めていた帯紐を緩められている。 締め付けたままでは寝苦しいから、直江がそうしてくれたものらしい。優しい奴。 少し顔が緩んでしまったのを隠すように、高耶はひょいと寝台から飛び降りた。 ふにゅっ。 「高耶さん!」 直江が制止の声を上げるのと、足の下に何か柔らかいものを踏んだのとが同時だった。 瞬間、ぎゃん、という悲鳴が上がり、巨大な金色の虎が寝台のすぐ横に飛び上がった。 はっと足元を見下ろす高耶である。 金色と黒褐色の縞模様も美しい、太い紐状のものが下敷きになっていた。それの元を辿ってゆくと、長いそれは…… ……最後に、驚きに全身の毛を逆立てた気の毒なハリの体へくっついていた。 そう、尻尾。 寝台の傍らに丸くなって眠っていたらしいハリの尻尾を、高耶は直撃してしまったのだった。 「うわあっ!」 叫んで飛び退いた高耶である。 ハリは密林の王者・マライ虎の威厳もどこへやら、ハリネズミのように全身の毛を逆立てて目に涙を溜めている。 そこには恨みがましい色はなかったが、痛いものは痛い。 声もなく、尻尾を針金のごとくかちかちにして、ハリは細かく震えていた。 高耶は床にへたりこんだ。 あまりといえばあまりにもハリに酷い仕打ちばかりしてきた気がする。 化け物扱いしたこと然り、全身の重みをかけて尻尾を踏みつけてしまったこと然り……。 「ごめん……」 しゃがみこんで、踏みつけた箇所をさすってやる。 滑らかな毛並みの向こうに、異様な熱と感触が…… 「うわ、腫れてる! ―――今、冷やしてやるからな!」 すっくと立ち上がり、全力疾走で水場へまっしぐら、の高耶の後姿を見ながら、ようやく直江は吹き出していた。 「お前には災難だったが、可愛いものだな……」 いとおしげに目を細め、主人は幸せを噛み締めている。 「主……冷たいです……」 目を潤ませるハリの呟きは直江には届いていない。 使い魔の宿命とはいえ、こんな主に仕えてゆくことの限りない苦労を思って彼は深い深いため息をついた―――。 (22/02/02)