シアワセノジョウケン


「……どうしたんです?」 その夜、夕食の席で直江は心配そうに高耶を見つめた。 普段は楽しそうにはしゃいで、今日は何をしただの、明日はこうしたいだのと話す彼が、今夜はなぜだか妙に静か なのだ。どこか心ここにあらずという風で黙々とハリの手料理を突付くのも長くは続かず、彼はスプーンを握ったまま、 すでに何分か動きを忘れていた。 一度問いかけても返事がなかったので、直江は箸を置いて、向かいに座っている相手に向かって手を伸ばした。 「高耶さん?」 うつむきかげんの頭へ触れて前髪を梳き上げる。そうしてやっと、 はっ、と相手はようやく心を現実に戻した。 「……あ、ごめん。何か言ったか?」 さっきまでの沈んだ顔を綺麗に忘れて、妖精は顔を上げた。 けれど、直江と目を合わせようとはしていない。 いつもは吸い込まれるような漆黒の瞳で、こちらの心の奥の奥まで見通そうというようにまっすぐに見つめてくるのに。 直江は、やはりおかしい、と思った。 疲れているというのか。全く元気がない。 「どうしたんですか? 元気がありませんね……。何か困ったことでも起こりましたか」 ―――あ。 困ったこと…… あるじゃないか。 魔法使いは、はっと相手の沈みようの原因に思い当たった。 ホームシックだ。 このひとはもともと、自分の世界では誰からも愛され、周りにたくさんの友達を連れて生きていた。 けれど、ここへ来てからは、正体を人に知られてはならないからという理由で、殆ど他人と付き合うことができない状態 にある。 自分と、ハリと、そして、一蔵、千秋と綾子だけが、彼の話相手だ。 そしてそれも、四六時中というわけにはゆかない。自分は研究棟に篭もることが多いし、ハリは家の維持に忙しい。 一蔵は商人で、そうそう遊びに来ることはできないし、千秋と綾子にしても、彼らには彼らの仕事と生活がある。 結論を言えば、元居た世界でそうだったような、いつも傍にいる友達は、ここにはいないのだ。 大勢の人と一緒に賑やかに生活するのが日常だった彼にとって、それはひどく寂しく、つらいことだろう。 それなのに、自分は――― 「……すみません、高耶さん」 たまらなくなって、思わず直江は頭を垂れた。 突然の謝罪に、高耶はわけがわからず戸惑う。 「な……直江?」 びっくりして瞬きをくりかえしていると、やがて顔を上げた直江と、目が合った。 深い色をした瞳に、焦点を絡め取られる。 そこには、例えようもないような無力感と、申し訳のなさが漂っていた。 何もできない自分を責める色―――。 「あなたを元居た世界へ還してあげたいと言いながら、ずっと放っておいた私を、許してください。 あなたにとってどんなにつらいことか、わかっていたのに。 せめて傍にいることくらいするはずのところを、棟に篭もりきりで、寂しい想いばかりさせていますね。 本当に、すまないことを……」 「……直江……」 高耶はふるふると首を振った。 身を乗り出し、手を伸ばして相手の頬に触れる。 それこそ犬のような、悲しげな眼差しを溶かしてやろうと撫でてみた。 「お前のせいじゃないだろ……そんな顔すんなよ。 オレなら大丈夫。ここの暮らしは好きだよ。向こうの友達はいないけど、千秋やねーさん、ハリがいる」 そして、お前がいる。 言わなかった呟きは当然、相手には届かない。 言わなかったのは、決して直江が嫌いだからではない。むしろ、その逆だ。 ―――好き。 簡単なことなのに。好きか嫌いか。それなら好き。 ただそれだけの言葉なのに。 それなのになぜか、そう口に出して言ってしまったら、引き返せなくなるような気がして…… 未成熟な妖精は、ひとり、言い淀んでいる。 そして、直江は直江で苦しんでいた。 「私は……わざと、忘れたふりをしていたんです……」 あなたは……怒るでしょうね…… 「積極的に消極的だったんです。……あなたを元の世界へ還すことに……」 還したくない。 いつまでも、自分の傍にいてほしい。 無防備な寝顔も、頼りなさげに身を寄せてくるのも、あまりにもいとおしくて――― ほんのちょっとした小さな仕草のひとつひとつに至るまで、すべてを自分だけが見ていたい。そう、願ってしまう。 そんなエゴが許されるはずもないのに。 あなただけとすべての時間を過ごすことすらできない自分に、あなたのすべてを要求することなんてできようはずもない。 私がいる。 それだけを約束に、故郷を捨ててくださいだなんて、言えるわけがない。 資格がない…… 「私がいるから、なんて約束、できませんよね……」 沈んだ面持ちで呟く直江だったが、相手の方の心中はもっと複雑だった。 お前がいる。 そのことはオレにとって、もう逆らえないくらい大きいこと。 向こうへ帰りたいと切望する心のどこかで、でも、という声がしている。 ―――向こうにはお前がいない     寝つくまで頭を撫でていてくれる大きな温かい手はもうない     すっかり慣れてしまった悪戯な抱擁もない     豊かな声で名前を呼ばれることも、蕩けそうなほど優しい瞳をして見つめられることもない…… こんな状況の中で、これ以上一歩でも踏み出したら、本当にオレはお前から離れられなくなる。 お前にはお前の生活があるのに。 オレがこうして世話になっているだけでも、どんなに時間を犠牲にしているだろう。 甘えることに慣れたオレは、当たり前のようにお前に甘やかされている。 それなのに。 もっと甘やかしてほしい…… 「なおえ……」 相手の頬に触れたままの手を、ゆっくりと離す。喪失感からか、少しだけ相手の瞳が揺れて、伏せられた。 立ち上がって、卓の横へ下りる。 そして、角を廻って相手の背後へ歩み寄った。 大きな背だ。 そういえばこれまで自分に背を見せたことがなかった。 いつもまっすぐに腕と瞳を向けて自分を受け止めてくれていた。 その背中がこんな感じだったのだと、今初めて気づいた。 よく締まって強い背。 広くて頼もしい背。 けれど今はどこか、寂しいその背――― 高耶は、こてん、とその背に頭を凭せ掛けた。 ぺたりと頬をくっつけて温かさの移るのを感じる。 これも、甘え行動だな。 自分はここまで子どもっぽかっただろうか…… 「高耶さん?」 ゆっくりと直江が背後に声をかける。どうかしましたか……? 高耶はふるふると首を振り、今度は手も添えて背中に張り付いた。 甘えきった声で、囁く。 「もちょっと、こうしてていいか……?」 それだけでいいから。 ―――はっ。 皿を下げようと顔を出したハリが、慌てて引っ込んだ。 ずいぶん間をおいて、彼が再びそぉっと顔を覗かせるまで、元・木の精は、優しい魔法使いの背中でごろごろと甘えていた。 夜中になって、高耶は目を覚まして傍らの男を見ていた。 最初の晩、寂しさを訴えた自分に、男は添い寝してくれた。そして結局、それはこうして習慣になっていた。 獣の仔が母親の懐に抱かれて眠るように、自分は直江の腕の中へ収まっている。 一度寝付いたら朝まで目が覚めることはなかった。 すべての不安を忘れて熟睡する。 こうしていると温かさと安心感に包まれて、赤子のように無防備になれた。 けれど、今夜は眠れない。 とうとう……言えなかった。 ―――明日、『魔女』のところへ行ってみる。何か策が見つかるかもしれないから ……                                          第二部 了                                          (23/03/02)







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