サイコウノシアワセ
高耶は正気ではなかった。黒い目はすっかりうるみ、頬といわず肩といわず、美しい赤に染まっている。吐き出す吐息は蜜のように甘く熱く、巻きついてくる腕は白い蛇のようだった。
全身が甘い香りを発している。
普段の幼い彼とは完全に別人だった。まるで、欲情しきった獣のよう。しかし決して不快感をもたらすものではなかった。むしろ目を見張らせ、魅入られてしまうような壮絶な色香の塊だ。
美しい―――獣。
自分を求めて体を擦り付け、唇を奪ってくるその獣は、このうえなく官能的だった。
「―――ッ」
ふいに、高耶が飛びすさった。
直江は何もしていない。ただ受け入れていた。突然高耶が離れていったのである。
「高耶、さん……?」
炎に触れた猫のように突然自分から離れていったその姿は、既に先ほどまでの美しい獣ではない。いつもの高耶だ。
「ぁ……」
彼は、直江から離れたところで、竦んだように動きを忘れていた。
否、震えていた。
「なお、え……オレ、今……」
「高耶さん?どうしたんです、高耶さん」
わけがわからず手を伸ばそうとすると、相手はいやいやをするように首を振って、そのままばっと伏せてしまった。
「高耶さん !? 」
「オレ、オレ……ごめん……ごめん、なおえっ……」
高耶はきつくシーツを掴み、嗚咽していた。
背中を震わせながら、彼は切れ切れに訴える。
「ごめん……!」
「高耶さん!それではわかりません。一体どうなっているんです?どうして謝るんですか」
傍へ身を乗り出して背中に触れると、相手は激しく反応して震えた。
「頼むから、もう、触んないでくれよ……!もう、これ以上……」
いやだ、と嗚咽する彼は一体何をそんなにも恐れているものか。あまりにももどかしくて、直江は相手をシーツから引き剥がした。
「謝ることなんかないから、お願い、顔を見せて!それから話して」
涙で一杯の黒い瞳が、こちらを見た。
頬は美しい赤に染まり、嗚咽の合間にこぼれる吐息はひどく甘い。けれど瞳だけはとても悲しくて涙をこぼしつづけている。
「高耶さん、お願いだから話して。どうしたの。どうしてそんなに悲しいの」
ひくっとしゃくり上げた彼にそっと問いかける。目じりに唇をつけて涙を吸い取ると、また新しい粒がこぼれ落ちた。
「なおえ……」
「謝るようなことなんて何もしていないでしょう?何がそんなに怖いの。どうして泣くの」
「うぇ……」
「話してください。ねぇ、お願いだから」
「なぁ、なおえ……オレのこと、きらいにならないか……?」
彼は真っ黒な瞳をうるませて不安げにこちらを見上げた。
「なりませんよ、絶対に。何を怖がっているんですか?お馬鹿さんですね……」
その瞳のすぐ傍にそっと口づけてあやすように滑らせると、相手はようやく落ち着いてきた様子だった。
「オレ……オレ、今、発情期なんだ……」
得られた真実は、想像していたよりもずっと簡単なことだった。
「でも、こんなの初めてで、もう何が何だか……。お前の声聞いてるだけで、その、おかしくなるし……瞳なんかまともに見られない。近くに寄ったら何をしでかすかわからない……。怖くて、怖くて……こんなオレ、お前に見られたら絶対きらわれる……って、思って……」
彼は初めて迎えた発情期に戸惑っていたのだという。
直江の声を聞いただけで、匂いに接しただけで、耐え切れない身の内からの要求が突き上げる。それがあまりにも浅ましくて、怖かったのだ。
想像以上の変化だった。こんなになってしまうなんて、自分はおかしいのではないかと思った。
こんな自分を見たら、直江は逃げてしまうのではないか。獣以下だと不快に思うのではないか。
対する男は、震える恋人に首を振った。
「この際、問題なのは私の意志ではありませんよ。あなたは?あなたはどうしたいの……?」
直江は、ぴるぴる震える小動物を落ち着かせようとするように、高耶の肩をとんとんと叩いて宥める。
「私はずっと前から待っていました。どうして今更あなたに背を向けるなんて思うんです?私の気は何も変わっていません。すべてはあなた次第なんです。
ねえ、あなたはどうしたいの?」
直江は高耶の背中を抱き、赤ん坊をあやすように優しく叩きながら問いかけた。
その瞳は本人の言葉どおり、これまでと何ら変わらない。たまらなくいとおしげに相手を見つめ、それでいて無理矢理自分の意思を押し付けることは決してない。
いつか情報屋がこの男のことを『気が長い』と言った意味が、ようやくわかった。
この男はいつもところ構わず衆目度外視で抱きしめてくるくせに、長い同居生活の中で一度だって無理に体を開かせようとはしなかった。自分がまだ何も知らない幼生だったから、自然に生長するまで待っていてくれたのだ。
「あなたの体が発情期を迎えたことは嬉しいし、喜ばしいことです。けれど、あなたの心がまだ追いついていないのなら、私はもう少し待ちますよ。体の生長だけに引き摺られているあなたを抱きしめても不幸せなだけだから」
直江は自分を見上げてくる真っ黒な瞳に微笑んで、相手の背をゆっくりと叩き続ける。
とん、とん、とん……
優しいリズムで背を叩かれるうちに、ややこしく絡まっていた感情の糸がほどかれてゆく。
何を怖がっていたのか。
何を欲していたのか。
何が足止めをしていたのか。
ゆっくりと……心が透明になってゆく。
「オレは……なおえに触りたい……」
高耶は両手を伸ばして直江の頬に触れた。
じっと相手の鳶色の瞳を見つめ、何も隠さない瞳の奥を見せて、告げる。
「オレを嫌わないでほしい。好きでいてほしい。それだけ」
自分に起こった変化それ自体を厭っていたわけではない。ただ、この男がそれを厭うのではないかという不安が心を苛んだ。
この男はどんなに熱い台詞を口にするときも穏やかな態度だったから、自分のこのような状態は異常だと思った。きっと男を呆れさせるだろうと思い、怖くてたまらなかった。
でも……もう怖がらなくてもいいのだ。直江の瞳は以前と何も変わらない。
幼かった妖精の黒い瞳は、頬に触れてくる手は、もう震えていなかった。
体の生長と心の成長との食い違いは、目の前にある優しい魔法使いの眼差しの中に溶けて、最後に残ったのは純粋な想いだけ。
そして丘の上の魔法使いは、ようやくほころんだ花に最高の笑顔を与える―――
なおえ……好きだよ
私があなたを好きなのと同じくらい?
……もっと好き
ほんとうに?
好きだから、こんなに……
こんなに?
……
ねえ、こんなに、何?
……―――だよ!
―――主とその想い人とのすれ違いの結末を気にして忍び足で覗きに来たハリが、扉の影からそうっと顔をのぞかせ、ピキッと硬直したことを、
扉に背を向ける状態で恋人の腕の中にいる妖精は、気づかない。
こちらは扉を向いていたために当然のごとくその存在に気づいた魔法使いが、見せ付けるように少年の喉元へ噛み付きながら、扉のところにいる使い魔ににやりと目配せしたことを―――
全身の産毛を逆立てて瞼を閉じている少年は、やはり気づかなかった。
慌てて回れ右した使い魔が猛ダッシュで逃げ出した際にうっかり扉に尻尾を挟んで
「あたっ!」
と悲鳴を上げるに至ってようやく第三者の存在に気づいた少年は、みるみるうちに真っ赤になって、
「なおええ―――っ!」
と絶叫するのだった。
―――さて、気の長い魔法使いは恥ずかしがりやの元妖精を宥めることに成功したのか、否か。
何時間経っても部屋から出てこようとしない主たちが、一体喧嘩しているのか仲直りしたのか、腫れた尻尾をさすりながらリビングの隅っこでぴるぴる震えているハリには、いずれとも見当がつけられなかったようである。
fin.
―――こんなに、何?
だから、こんなにシアワセなんだよ!=\――
04/02/14