サイコウノシアワセ
街の人々が恐ろしがって決して近づかない北山の麓に、一人のほっそりとした少年の姿がある。
彼を出迎えたのは真っ黒な羽をばさばささせたカラスたち。彼らはこの北山に住まう『魔女』の使い魔である。
取り囲むように羽ばたいて道を示す彼らに先導されながら、少年は細い山道を歩いていった。
昼間でも薄暗い、ひと気の無い鬱蒼とした森の中。
一見するとさびれた恐ろしげな山道だが、少年にとっては慣れた道である。
途中で何度か『魔女』の設けた魔法門を通り抜けて空間跳躍し、ほどなく屋敷の門前に至った。
このひと気のない古い大きな洋館が、『魔女』の住まう屋形である。
カラン……コロン。
呼び鈴を押すと、さび付いた外見からは想像ができない涼しい音が鳴り響いた。
間をおかずに、門扉が開く。
決して風で動くような軽いものではなく、硬い金属製の扉なのだが、誰も触れないのに独りでに開いたのだ。『魔女』の歓迎を示す魔法である。
高耶は歩いて中へ入り、屋敷の建物の扉へ至った。
再び扉が―――大の男が三人がかりでやっと開くことができるような重厚な樫の扉だ―――音もなく開く。
そして、入ったところに敷かれた絨毯を踏むと、その絨毯が独りでに滑り始めた。
これも『魔女』の魔法で、歩かずとも彼のもとへ至ることができる。いつも思うのだが、便利な魔法だ。
あっと言う間に廊下を抜け、階段を越え、空飛ぶ絨毯は一番奥の部屋の扉の前にふわりと降りた。
「入っていいか」
みごとな艶を誇る扉の向こうへ向かって声を掛けると、
「どうぞ」
中から美しい低音の声が応える。
ドアノブに手を掛けて扉を押すと、よく油が指してあると見え、するりと開いて、書物や水晶玉や毛皮や謎めいた壜の山などの妖しげな物品に囲まれた机に悠然と収まった『魔女』の姿が目に入った。
「今日は何の相談で来られたのかな?あの男につきあいきれなくなったから、ここの助手になる気になったか」
「違うって。直江とはうまくやってるよ。……問題はオレ自身のこと」
『丘の上の魔法使い』の助手兼恋人であるところの元妖精は、『北山の魔女』こと高坂に、そう告げた。
基本的に陽気で周りを楽しませる性質の彼は、しかし、今は些か沈んだ顔である。
彼がこんな顔をするのは恋人の魔法使いが彼を構ってくれなくなっていた頃以来のことで、高坂は僅かに眉をひそめた。
「お主自身に関することとな。どのような?」
「最近、体の調子が変なんだ」
少年は勧められるままに鹿革を貼ったスツールに腰掛け、沈んだ声で呟いた。
「ほう?」
『魔女』は妖艶な長い指で自分の顎の辺りをなぞり、続きを促す。
「食欲がわかないし、ぼうっとして、とにかく変なんだ。妖精は人間みたいな体の病気はしないもんだけど、オレ、人間界にいるから体質が変わったのかな」
自分という存在が特殊な例だと知っているから、この元妖精は不安を隠せない顔だ。
妖精郷にいる妖精は人間のように身体的な病気はしないものだが、こうして理の違う世界に住む今は、もしかすると人間のような体質に変化しないとも言い切れない。
「心臓が時々おかしな動きをすることもあるんだ。どくどく速まったり」
「ふむ。それは一人で居るときか?それとも、あの男が側にいるときか」
『魔女』は顎から手を離して質問を続ける。
その瞳の様子から察するに、目の前にいる元妖精の奇妙な体調不良に対して何らかの見当をつけたようだ。
「んー直江より先に寝るときとか、直江と食後にお喋りしてるときとか。状況はいろいろだな」
「なるほど」
『魔女』はふむふむという顔で頷き、
「何となくわかったような気がするのだが」
と呟いた。
「本当か !? 」
ぱっと顔を上げた少年に、『魔女』は頷いてみせた。
「その症状に見当はつくのだが、これは薬で劇的に治るというものではないな。日にち薬のようなものだ」
『魔女』の表情は決して深刻ではなく、少年はその顔を見て少し心が軽くなるのを感じた。
「そうなのか?でも、少しでもいいから効くのとかないのか?」
気休めでもいいから薬が欲しいと頼んだ彼に、『魔女』は鷹揚に頷く。
「それならこれを持って帰られよ。湯か牛乳で溶いて食後にでも飲むとよい」
彼が机の引き出しを開けると、がらんとした引き出しの中に手のひらほどの小さな銀色の缶が鎮座していた。
「これだけでは素っ気ないな。何か入れ物でも」
と呟きながらその引き出しを一旦閉じて、再び開ければ、中には茶色い紙袋が一つ。
薬の入った銀色の缶を茶色い紙袋に入れてくれた『魔女』は、その包みを妖精に渡すと先ほどの絨毯を示した。
「そろそろ帰られよ。あの心配性の保護者がおろおろしていることだろう」
「ああ。ありがとな、高坂。聞いてもらったら何か気が楽になった」
茶色い紙袋を手にした少年が晴れやかに笑うと、『魔女』も僅かに唇の端をつり上げた。
「いや、お主の話は色々な意味で参考になるのでな。私もこの世界では異邦人だ。気持ちは良くわかる」
高耶の恋人であるところの『丘の上の魔法使い』に対しては風当たりのきつい『魔女』だが、目の前にいるこの元妖精についてはいたく気に入っている彼である。
何くれとなく相談に乗ってくれる彼を、いつぞやの一件以来頼りにしている少年は、軽く頭を下げた。
「そうだな。これからもよろしくな」
「ああ。それではまた」
『魔女』にもらった薬は茶色い粉末状で、甘い匂いがした。
たまたま家にはハリが市場で仕入れてきた新鮮な牛乳があったので、それを温めてスプーン一杯分の粉を入れてみると、薬とは思えないおいしい飲み物になった。
この不調は心配性の恋人には相談していないことなので、彼が研究棟に籠もっている隙を狙って毎日一杯ずつ飲み続けると、―――症状が変化した。
なおえ
明らかに恋人との距離に左右されるのだ。
こうなると、さすがに彼自身にも自分の症状の理由がわかった。
……わかったからといって、どうしようもないのだが。
(04/02/06)