「なぁ、ところでこれからどこへ行くんだ?あてはあるのかよ」
ボーイング707のビジネスシートに身を沈めて、高耶が隣を振り返った。
「千秋に任せておきなさい。あなたは少し眠って。一晩仕事をしていたのだから、お疲れのはずです。
着いたら起こしてあげますよ」
傍らの男はそう言って微笑み、安心させるように指で相手の瞼を閉じてやった。
「……何か、誤魔化されてる?」
高耶はむむっと眉を寄せて目を開ける。
じっと直江を睨み上げると、
「まぁ、着く先はお楽しみということで、ね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑られて、高耶はほやっととろけた。
しかし、ふと我に返って大慌てで目を閉じると、
(かわいいとか、見とれたとか、オレ、けっこう重症かもな……)
と心の中でため息をつき、
(しょうがない。もう寝よ。寝ちまうに限る)
高耶は思いきり寝る体勢に入って、窓に寄りかかった。
たちまち寝入ってしまったその頭上にアナウンスが入る。
『当機の機長より、ご案内を申し上げます。この機はボーイング707、便名はNH175、S.A.A.S, Subang 国際空港行きです。到着予定時刻は現地時間で午後0:45、フライトはおよそ六時間半の予定です。到着地の気温は摂氏35℃、天候は晴れです。
当機の機長は千花です。それでは皆さま、快適な空の旅をお過ごしください』
そう、ここは国際便の機上である。
チケットのない高耶をどうやって国外に出させたか。
それは千秋の特技と特捜のバッジにものを言わせたのだった。
特捜のバッジはそれ自体、ある意味でこの国最高の権力の象徴ともなる。捜査の一環だからと言われてバッジを提示された場合、まっとうな機関であればどこであれ、それに「協力」せざるを得ないのである。
先ほど、千秋はその将長クラスのバッジを提示して、この機の機長と交代したのだった。
そう、彼は操縦のプロなのである。
―――というよりも、マニアと言っていい。
特捜の訓練では、武道以外にも各々に合った様々な特殊技術を身につける。千秋の場合、それが飛行機の操縦だったというわけだ。
彼は正式な免許こそ持っていないが、おそらくどの国の航空会社の最ベテランと張って負けないだけの腕前を身につけていた。そもそも操縦が好きなのだ。
実際の捜査のうちで操縦桿を握らせてもらう機会はそう滅多にはないので、今回彼は、久々に腕が鳴るぜ、と楽しそうに機長服に袖を通したのだった。
そして、先ほどのアナウンスも千秋の声である。その言葉の端々から、彼が心底楽しんでいる様子が伝わってきて、直江は少し笑った。
彼はそうして、傍らに目をやった。
規則正しい寝息をたてて無防備に眠っている、艶やかな黒髪をした青年。
伏せた睫毛も同じ色をして、時おりぴくりと動いている。
唇が微かに動く。
一体どんな夢を見ているのだろう。
そんな姿を目を細めて見守りながら、直江は唇にゆっくりと笑みを広がらせていった。
「……オレ、これからどれだけ他人に迷惑かけてくんだろうな」
ふと、眠っているとばかり思っていた高耶が小さく呟く。
沈んだ、泣きそうな声音だった。
自らを責める言葉……。
直江の表情も一瞬にして静まり返る。
「千秋の、ことですか」
苦い答え。
「あいつ……任務でもないのにバッジ使って、ばれたら降格処分だ。オレのために。オレのせいで……」
千秋がこのフライトを問答無用で横取ったのは、二人を送り届けるため。バッジを提示すればチケットなどなくとも乗務員通路から搭乗させることができるし、こうして空いているビジネスシートに座らせることもできるから。
現在ビジネスシートは疎らにしか埋まっていない。その中でも、準ファーストクラスのこの一角には、二人しか座っていなかった。
この環境ならば、徹夜の仕事で疲れきった高耶もゆっくり寛いでいることができる。
千秋のこの気くばりが、優しすぎてありがたすぎて、いっそう高耶を申し訳ない気持ちにさせていた。
「高耶さん……」
直江には、掛ける言葉がみつからない。
「馬鹿だよな……いっつもオレのせいで骨折って。貧乏くじ引かされて。
二年前だって、あんまり無茶な逮捕状取りさせたからってブレーンの気を悪くさせて、危うく軍門会議にかけられるところだったんだぜ。謹慎で済んだのが奇跡だ」
笑っている。儚く悲しい笑い声。
「……高耶、さん」
直江はたまらなくなって手を伸ばした。
隣にある体を覆い隠すように背中から抱きしめる。そっと。
腕の中で、向こうを向いたまま、高耶が震える気配がした。
「……お前にも……」
さらに紡がれる言葉は、痛いほどに悲しかった。
「特捜を抜けることは許されない。オレはこの瞬間から追われる身になった。いつどこで『管理者』からの干渉があるかわからない。
お前の傍にいるだけで、お前を危険な目に合わすかもしれない……」
高耶は白くなるほどきつく拳を握り締めている。
「それなのに……わかっててお前についてきた。お前に類が及んでも、それでも、オレは……っ」
「高耶さん!」
直江は今度こそ、死ぬほど強く相手を抱きしめた。
「どうしてご自分ばかりを責めるんです……危険は私も同じだ。目立つ組織に共同戦線を組まれて追われている身で、あなたを攫った……。それこそ私の傍にいるだけであなたにも同じ危険が降りかかるのに。そんなこともわかっているのに、自分のエゴであなたを巻き込んだんです。
今回だって、奴らの急襲に対応しきれずに別宅を捨てる羽目になって、一番長い付き合いの得物を残して去るなどという失態を犯したんですよ。私は。
こんなに危険な話はない。
打つ手もなくやられるかもしれないと、初めて思ったほどです。
そんな状況で誰かを傍に置くなんて、とんでもない話だ。
―――けれど……
それでもあなたが欲しいから。傍にいて欲しいから。
何が起こってもきっと守るから、来てください……俺と共に、来てください……っ」
抱きすくめられた体が熱い。密着した背中が燃えるよう。
胸に回された二本の腕はたまらないくらい強くて、高耶はやるせない吐息をはいた。
「来てくれますか……」
お互いに、追われる身。
傍にいるだけで相手を危険に巻き込んでしまう、そんな状況で。
それでも、肯いた―――
・ ・ ・ ・ ・
きっと、明日の朝、オレを目覚めさせてくれるのは銃声でも悪夢でもない。
お前の声で、おはようございます、高耶さん……
02/07/31
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