里見の副拠点の建物が、一瞬にして闇に呑み込まれた。
突然のことに、里見の連中は虚を突かれる。
その一瞬の間に、直江は女性を腕にしっかりと抱きかかえたまま一気に廊下を走りぬけ、突き当たりの非常階段に出た。
ヒュオ……
運ばれてくる潮風が鼻についた。
そこで一旦息を潜め、外回りの見張り連中が内部へ意識を向けている隙を突いて、音もなく駆け下りる。
地面に足をついたところで再び動きを凍らせる。
外の人間たちが内部へ突入してゆくのを確認しながら、同時に逆方向へと走った。
ウィンダムにたどりつき、後部座席のドアを開ける。
シートの上に意識のない女性を慎重に寝かせた。
横たえるときにしか見ていないが、女性ははっきりした顔立ちの、気の強そうな美人だった。
一体、カゲトラの何なのだろうと頭の片隅で思いながら、直江は車全体を特殊施錠した。
この車はフレーム段階から特殊仕様で、そう簡単なことではびくともしない。この車の中にいるかぎり、彼女は安全だ。
そうして、直江は再び建物の方へ走った。
ここから見ていても、内部の動揺が窺える。
突如として停電し、非常灯すら点灯しないことに加えて、あの中では、監視の『眼』をはじめとするあらゆる機器という機器が軒並みダウンしているのだ。
それで動揺しないほうが奇怪である。
無論、それらの撹乱行動はすべて直江の手によるものだった。直江は電波の操作に長けていて、ほとんどありとあらゆる波動を制御できるのだ。特定の波動を妨害したり発生させたりして、今様の電子管理ビルを撹乱することなどお手の物だった。
それらの作業は、ウィンダムの車内に積んである主端末をメインにして、手首の内側に備えてある極小端末を通じて行っている。
今も、走りながら、直江は手首の端末に爪の先でコマンドを打ち込んで、中で里見の人間たちが回復させようとしている電波を妨害するのに忙しかった。
内部は完全に闇の中だった。
尤も、直江は先ほどの眼鏡に赤外線鏡機能を備えているために、ものも人の動きも、正確に見て取ることができている。
ただし、それは里見の側についても同じことだ。当然、この建物においても、このような事態に備えて、赤外線鏡程度は用意してあるのだから。
直江は懐に手を入れて、愛器の感触を確かめた。
一方、カゲトラはその頃、建物の中で里見の男たちから逃げ回っていた。
細刀は抜かずに、足だけで走り回っている。
銃を持った男たちはしかし、おそらく開崎の指示だと思われるが、カゲトラの体に傷をつけぬようにしか狙いを定めていないのだ。本気で狙ってもいない弾に撃たれてやるほど、カゲトラは愚鈍ではなかった。ひょいひょいと避けては跳び、走り、彼は十分に追っ手を撹乱していた。
しかしそれも、時間の問題。いくら相手が本気で狙ってこないといっても、あまり長い時間をそうして追い追われしていると、男たちの狙いも段々熱を帯びてくる。
直江にも、肉眼では見ることができていなかったが、カゲトラが建物の中を逃げ回っていることが見えていた。打ち合わせた通りの手順で彼は中を走り回り、相手を振り回しているはずだ。
しかし、そろそろ時間的に限界だろう。
彼らの鬼ごっこがかなり危険な瀬戸際にもつれ込んだころに、直江は次の手を打った。
手首の端末に向かって、一連のコマンドを打ち込み、アクセプトキーを押す。
―――そのとき、建物内部の全ての赤外線鏡が機能停止した。
つまり、内部は完全に闇と化したのである。
「なッ」
度重なる奇怪な現象に、男たちは動きを鈍らせる。
これまで赤外線鏡の供給してくれる視界に頼っていた彼らは咄嗟に闇に対応できなかった。
その隙に囲みを駆け抜け、カゲトラは合流場所へ向かった。
むろんのこと、彼自身の視界も真っ暗闇だったが、予め頭に叩き込んでおいた地図に従って、彼は闇の中を的確に合流地点めざして走っていた。
一方直江も、同様の闇の中を駆け抜け、その場所にたどり着いていた。
そこにたどりついて、二人は足を止め、沈黙した。
二人は互いに、自分の前に誰かがいるということに気づいている。
しかしそれが誰であるのかはわからない。この闇の中だ。
もしうっかり近づきでもして里見の人間ででもあれば、洒落にならない事態に陥ることは確実だった。
しばしの時間ののち、カゲトラが先に口を開いた。
「ねーさんは?」
「車の中です」
即座に直江が返事を返す。
この遣り取りでようやく二人は互いを見い出し、闇の中で手を触れ合った。
その手を頼りにすぐ傍まで近寄って、直江はカゲトラの手の中に眼鏡を握らせた。
「これは?」
「妨害波を中和するように設定してあります。一旦消した波を再び構成するかたちになりますので、あまりはっきりとした像は結べませんが、ないよりはずっと助けになるはずです」
「なるほどな、ありがとう」
カゲトラはそれを耳に掛けてみた。
そうして前を見ると、ようやく直江の姿が見えた。たしかに鮮明とは言えない像だが、確実に人間の形は見て取ることができる。
「文句ないな」
刀で切り裂くには、輪郭で十分だった。
これからが最後の仕事だ。
開崎を殺すか、逮捕して、里見を潰す。総仕上げともいえる段階だった。
ここまでの撹乱行動で、里見の男たちの深層心理にはかなり揺さぶりをかけることができている。あとは建物の中に催眠波を流せば一絡げにすることができるだろう。それで十分、事は足りる。
しかし、開崎についてはそれだけで済ませてやるわけには到底ゆかなかった。
自分の手で叩きのめしてやらねば、人質にされた仕打ちも、カゲトラの矜持に加えられた侮辱も、雪ぐことはできない。
「見えますね?」
直江が問うた。
「ああ。……そろそろ、行くか」
カゲトラはそう言って闇の向こうを睨みつけた。その体に静かに闘気が充填されてゆく。
直江も同じように気配を変えた。
二人の目が、戦いの前の高揚感に光る。
―――ただ、もう一つ。
直江は、最後の確認をした。
「ところで、本当にいいんですか?これは正式な手続きを踏んだ行動ではありませんよ」
あなたは本来、きちんと逮捕状を取ってから行動するべき立場の人間なのでしょう?それがこんな風に単独で行動して、本当に構わないんですか?
「―――やっぱりわかったか」
直江の言葉に、青年はため息にも似た様子で息を吐いた。ばれたか、というように微笑する。
「オレが特捜の人間だってこと」
特捜……警察庁預かり、特殊捜査部。捜査官は『将』もしくは、the Special Agents―――SAとも呼ばれる。
彼らの仕事はさまざまだが、表立って警察が動くことのできない内容の事件解決に動くということは変わらない。
その捜査方法は法の許す限りの範囲を越えるものなのである。犯人逮捕は、生死を問わず、という条件のもとで行われる。
しかし、一つの組織を叩き潰すという行動には、正規の許可が必要だった。相手側にそうされるだけの落ち度があるということを証明できる証拠を揃え、逮捕状を取ってからでなければ、彼らが今取っているような行動は全て、私闘と判断され、刑事罰の対象となるのだ。建造物侵入、器物破損、暴行、殺人、などをはじめとするあらゆる罪状がカウントされることになる。
そして、今までに、上のうち、殺人を除くほとんど全ての行動を彼らは取っていた。
この上開崎を殺してしまえば、殺人罪までもそれに加わることとなる。
特捜の将が私怨でこんな行動を取ったとあれば、どんなに軽くても降格処分は免れない。
「それでもいいんですか?場合によってはあなたはせっかくの黒バッジを喪うことになりますよ」
黒バッジは、将の階級を表すバッジの地色が黒、つまり、将長級だということの証だった。
もっとも、『長』といっても、将長と将との間に恒久的な上司・部下の関係があるという意味ではない。グループ捜査をするときに長を務めるランクの人間であるということを示すのだ。
直江の問いには答えずに、青年は問い返した。
「―――オレがカゲトラだって、名乗ったときに気づいたのか?」
「いいえ。里見を追っていると言ったときです。里見の副拠点にここのところ特捜の手が入っているということは知っていましたし、その指揮官の名前くらいは記憶しています」
カゲトラ、という名前はこの裏世界では有名だった。SAの中で最年少の黒バッジ所有者。
そんな情報を見落とす直江ではない。
「そうか。何だか癪だけどな。間違ってねーよ」
自分は相手のことをわかっていないのに、相手にはすっかり読まれてしまっている。
そのことに少し憮然とした表情を見せた青年に、直江が嬉しげな微笑みを浮かべた。
「―――私のことが気になりますか?」
今さら問われるまでもない。青年はこの事件が済んだらその足で情報局に調べに行くと決めていた。
「ヒントを差し上げましょうか」
笑いを含んだ声で問われたが、
「要らない」
青年は即座に首を振った。
「自分で調べてみせる」
挑戦するように笑みを浮かべて、彼は宣言する。相手に問うつもりも必要もない。こっちで勝手に調べるだけだ。
「あんたみたいな顔も頭もいい、腕の立つ男なんて、いくらこっちの世界が広いといったって、そうそういねーだろ」
肩をすくめるような仕草を見せて笑う彼に、直江は少し首を傾けた。
「おや、腕が立つかどうかはまだわかりませんよ。こいつの出番はこれからです」
懐から愛器を取り出して、掌に馴染む感触を楽しむように揺らした。チャ、と金属特有の音が生じる。
青年も胸の細刀を取り出し、鞘のまま両手に馴染ませた。
「さあ、本当に行きますよ。いいですね?」
直江の問いに、カゲトラは大きく肯いた。
「もう待ってなんかいられない。
これまではそうしてきた。なかなか決定的な証拠を挙げることができなくて、しょうがないから下の子組織から潰してじわじわ足元から攻めていった。けど、あいつらは隠すのも逃げるのもお手の物なんだ。証拠が揃うまで待ってたら、永遠に逮捕なんかできねーよ。
しかもそのうちに、あの男、開崎がオレに目をつけて、欲しいと言ってきた。最初は正式な手続きを踏んで里見に来いと誘うだけだったのが、そのうち誘拐まがいのことまでされかけた。
そうして今度は、ねーさんを攫ったんだ。オレの目の前で!『人質とお前の身柄を交換する』って条件を残してな。
もう黙ってなんかいられるか!きっちりこの借りは返させてもらう。この手であの男をたたき切ってやらねーと収まらねえ」
言ったなり飛び出そうとしたカゲトラの腕を、直江がふいに掴んだ。
「放せッ」
「違います。……聴いて」
掴まれた腕を放させようと暴れる青年に、直江は囁いた。
「何か、来ます」
「 !? 」
港の暗いコンクリートの上を、車が走ってくる。そして、頭上には消音ヘリの気配。
知る者にとっては一発でわかる、その集団。
「これは……っ」
はじかれたように顔を上げて、青年が叫ぶ。
「あなたの同僚のご登場のようですね」
直江が言って微笑んだのと同時に、青年の右耳のコールが鳴った。
「―――カゲトラ!」
「千秋 !? 」
聞こえてきた、待ち続けた相手の声に、青年が叫ぶ。
「今はナガヒデだろ? ……逮捕状、取ったぜ」
律儀に訂正した相手は、最も重要な内容をすぐに告げた。
青年は目を見開いた。
「ま、さか……いつの間に!」
「待ち合わせには間に合わなかったけどな、あれからフル回転して最後の証拠固めして、ブレーン叩き起こして書かせた。後で労ってくれよな」
ふふ、と笑う相手に、カゲトラは不覚にも目を熱くした。
いつでも、いつだってこの同僚は、無茶をした自分のために骨を折っている。自分の方が余程無茶なことを圧してでも、そうしてくれる。
「お前……」
言葉をつまらせるカゲトラに、相手は困ったように微笑んでいるらしい。
いつだってそう。素直でない男。目に見えるようだ。
「―――さあ、どうする。もう突入させるか?下にSAが来てるだろ。ちなみに俺様はヘリだ。
それとも奴らは少し待たせておくか? 積もる話もあるだろ……ヤツと」
開崎と一対一で対決したいのなら、突入を少し遅らせることもできるぜ、と気を回してくれた同僚に、カゲトラは強く細刀を握りなおし、強い声で答えた。
「3分でいい、オレにくれ」
その高揚した瞳が、傍らの男に肯いてみせて、きらりと輝いた。
02/07/20
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