二人はそうして、闇の中に飛び出していった。
開崎はおそらく、カゲトラを待っている。彼が捜査を他のSAに任せてこのままあっさり帰るはずもないと、わかっているに違いない。
特捜は今、ナガヒデの指揮のもとで周囲を包囲したまま動きを止めている。なぜすぐに突入しないのかと疑問に思う者はない。彼らはみな、カゲトラが里見を追ってきたことを知っている。そして、彼が他人のじゃまの入らない状況で、自分の手で相手と決着をつけたがっているということも。
この3分間が、彼らにとってもカゲトラにとっても、大きな意味を持っていた。
「奴がどこにいるかわかるか?」
カゲトラが走りながら直江に問うた。直江は手首の小型端末を指しながら首を振る。
「残念ながら、これだけでは見当がつきません。ただ、相手の性格から判断して、おそらくは最深部のデスクに収まって悠々とこちらの到着を待っているように思いますが」
「そうだな。あんたもそう思うっていうなら、間違いないだろう。場所は最初の地図で確認した通り、二階の東、E210−Cだ。
行こう」
二階には里見の人間たちが詰めていた。
彼らも、自分たちが既に包囲されたことはわかっている。そうなったとき、半端な組織ならば自ら瓦解してゆくのだが、さすがに三代続いた里見の結束は固かった。その首領が世襲以外で継いだ組織であっても、むしろその手腕の確かさが証明されたようなものであって、彼らの家族意識に楔を打ち込む要素にはなり得なかった。
男たちはこれ以上一歩たりとも首領に特捜の人間を近づけまいと眼を怒らせ、既に外へも打ち出ていた。
外を包囲している特捜とやり合う物音が遠く聞こえてくる。
そして、内部でも同じことが起ころうとしていた。
闇に慣れ始めた男たちの目を、突如として激しい光が襲った。
「!?」
真っ暗闇だった建物の照明が、ふいに回復したのだ。
そして、E210−Cの手前、二階の東棟を守っていた集団の先頭が、ばたばたと倒れ伏した。
いずれも胸を一発で撃ち抜かれている。
何事かと彼らの視線がその元をたどった。
廊下の向こうから、二人の男が走ってくる。
それを認識したころには、男たちの先頭にいた人間たちの約半数が、床に崩れ落ちていた。
「すげえ腕じゃん」
かなりの距離があったのをものともせずに、的確に相手を撃ち倒した直江に、カゲトラがにやりと笑いかけた。
「この程度の状況なら、まだ楽なほうですよ」
直江の返した笑みはあの危険な色気を漂わせたもの。
眼鏡を毟り取り、二人は目を交わして床を蹴った。
首領・開崎を目指して討ち入った二人の男と里見の人間たちとの乱闘が、始まった。
「怪我をしたくない者は下がっておれ……!」
群になって守りを固める男たちの中に先頭をきって切り込んでゆくカゲトラの黒刃が半月型の軌跡を描いては道を開いてゆく。
相手側にしてみれば、この至近距離では、却って飛び道具は使いにくい。それを考慮して同じ刃物で迎え撃つのだが、その道に名を残した人間の相手ではなかった。
閃く漆黒の弧の後には、刀をはじき飛ばされた者や手首ごと刃を失った者が残るのみ。
同士討ちになってもよいと思ったか飛び道具を持ち出してきた者には、直江の黒い鋼鉄の塊がきっちりお見舞いを返した。
剣を振るいながらカゲトラが驚いて心の中で呟いたことに、直江は体術においても秀でていた。カゲトラ自身、飛び道具を扱えない弱みをカバーするために体術には力を入れているが、その彼に目を見張らせるほど、直江の戦いぶりは見事だった。
挟み撃ちにかかって来られればひょいと身をかわして相手を同士討ちにさせる。
肉薄する刃をものともせずに脚を閃かせては驚異的な脚力を発揮して何人も一気に蹴り飛ばす。
肘打ちも手刀も的確に相手の急所を抑えていた。死なない程度に、しかし戦闘能力はカケラも残さずに、直江は男たちを倒してゆく。
ますますもって、只者ではない。これまでの情報処理能力にしても、撹乱行動の取り方にしても、わかっていたこととはいえ、あまりにも普通でなさすぎた。特捜関係者でないことはわかりきっている。こんな目立つ男がいれば、いくら部署が違っても、耳に入らないはずもない。ではそのさらに後ろにある『櫻』の一員ででもあろうか。
いや、それもおかしい。この男は明らかに、公に属す者ではない。それは男自身の言葉尻からも読み取れた。
そうかと言って、どこかの組織の属する者なのかと思っても、そのような情報は自分の耳には入ったことがない。
では、どこの組織にも属さないということか?
そんな男がいたか……?
一体、この男は…… !?
見事なまでに切れ味の良い黒刃を振るいながら、カゲトラは頭の中でただ叫んでいた。
二人組の侵入者は、抜群の連携で、順調に囲みを突破してきていた。
もうすぐ約束の3分が過ぎる。
そろそろ特捜の人間が突入を開始して、二人の通った後に転がっている男たちに手錠をかけてゆくことだろう。
二人の行く手を阻む者は既になかった。
東棟の護衛人員はすべて戦闘能力を失って彼らの後に積み重なっている。
あとは、首領の部屋を守っている人間たちだけだ。
二人はそこで少し足を停めた。
さすがに散々暴れまわった後で、息が上がっている。そのことに忌々しそうな顔をして、カゲトラは横へ唾を吐いた。
あまり似合わないその乱暴な仕草に、直江が少し意外そうに首を傾げる。
「気持ち悪い……」
カゲトラがまた唾を吐き捨てて唇をこすった。もう何度目になるだろうか。
先ほど開崎に無理やり奪われた、その感触が消えないのだ。
耐えられない。唇に触れた湿った感触、舌を絡められたあの感じ。ほんの短い間だったけれど、口中を冒された。
思い出すだけでおぞ気が走る。
「こちらを向いて」
直江が呼んだ。
反射的にそれに従ったカゲトラは、再び唇を覆われる感触を味わった。
けれど、今度は少しもおぞましくはなかった。
強引に割り込むのではなく、そっと触れて癒すような、そんな温かい肌の感じが、首筋をむずむずさせるほど気持ちいい。
閉じていた唇の合わせ目を思わず緩めると、そこから舌が入ってきた。中に来ようとはせずに、入り口をほぐそうと舐める。
抵抗なくふっと緩んだところへ拒絶の意志のないことを確認したか、直江はもっと中の方へ舌を入れた。奥のほうで戸惑ったように 固まっている相手のそれをぺろりと舐めると、
「は……」
驚いたように体が強張った。しかし、拒絶の動きはなく、直江はそのまま極力おとなしく口内に触れていった。
相手の舌を吸うようにして宥め、それから歯列、口蓋、と全てに癒しの接触を与えてゆく。
「ふ……っ……」
冒された部分のすべてをそうして清められると、カゲトラの膝から力が抜けた。
「少しはましになりましたか。
本来、キスというものは気持ちのいいものなんですけれどね。どうでした?」
崩れかかった相手の体を抱きとめて、直江が、ふ、と微笑んだ。
「……サンキュ。気持ち悪くなくなった」
呆然としたように目を見張っていた相手は、それでようやく正気に立ち戻ったらしい。
礼を言って体を押すと、ようやく力の戻った足に力を入れて、自分で立った。
「それはよかった。なにぶんにも初めてでしたので。こういうシチュエーションは」
直江は面白そうにくすくすと笑っている。
それを見てからかわれているような気分を覚え、カゲトラは相手を軽く睨みつけた。
「笑うな」
黒い瞳が滑らかに光る。吸い込まれそうな錯覚を覚えるような、そんな瞳。
開崎が陶然として見入っていた気持ちがわかるような気がして、直江は目を見張った。
思わずはっと息をのんでいると、彼はそのまま、怒ったように背を向けてずんずんと一人先に歩いて行ってしまった。
拗ねたような怒りのオーラを発している、どこか子どもっぽいその後姿に更に微笑を誘われ、直江は遅れそうになって慌てて後を追った。
E210−Cの前で、二人は再び足を停めた。
扉の向こうは不気味なまでに静かだった。しかし、中に人間がいることはわかっている。気配は隠せない。
カゲトラはそこで、大きく息を吸って細刀を強く握りなおした。その肩に直江がぽんと手を置く。
少しだけ首をめぐらせれば、あのときと同じ、包み込むような温かい鳶色の瞳が見守っている。
『自分を信じることができないなら、私を信じなさい』
ふざけているのでも、うぬぼれているのでもない。ただ、強い瞳。
「行きましょうか」
「ああ」
―――直江が黒い鋼鉄の塊をすい、と持ち上げ、無造作にトリガーを引いた。
ガァン!
扉が吹っ飛んだ。
同時に二人は中へ突入していた。
正面に開崎がいる。その周りと扉の前に、里見の男たちがいた。ずらりと銃を構えて。
既に安全装置は外され、侵入者の姿を認めた瞬間には引き金に掛かった指に力が入れられている。
ドゥン ドゥン ……
男たちの銃口が弾丸を撃ち出した。
それと同時に、たて続けに直江の銃が火を吹く。
サイレンサーつきの銃は音をたてないが、代わりにどさりどさりと肉体が床に落ちる音が返った。
―――男たちの約半数が心臓を撃ち抜かれて事切れていた。
「っ……」
残る人間たちは一瞬怯んで、それから再度引き金を引き始めた。
その撃ち方にはもはや統制のかけらもない。
撃ち尽くしてもいいとばかりにめちゃくちゃに撃ちまくる。
さすがに銃弾の嵐の中を駆け抜けて無傷でいる自信はない。
直江はカゲトラが既に脇のソファの陰に飛び込んでいるのを横目で確認しながら、こちらも反対側の陰へ身を躍らせた。
男たちの銃口が二手に分かれた。
ダダダダン……
見る見るうちにソファの革に無残な銃痕が刻まれてゆく。
その音を聞き、間合いを計りながら直江は愛用の銃を懐に仕舞い込んだ。
ここからは体で勝負だ。両手で構える猟銃相手にこの片手銃は些か分が悪い。
―――そして。
里見の男たちの銃が撃ち続けられる中に、一瞬、音が止んだ。
「はぁッ……!」
その空白の瞬間に、直江はそこから飛び出して最も手近な男に跳びかかった。
「な……っ」
ふいを突かれて相手の男はバランスを崩す。その次の瞬間には首筋に手刀を落とされて意識を失っていた。
そして直江は男の手にあった猟銃を奪い取り、返す刀で里見の男たちに撃ち込んだ。
襲い来る銃弾を身を捻ってかわし、その反動すらも力にして相手への攻撃に費やす。
ダダダダン……
撃ち続けて、相手の手の銃を吹っ飛ばす。一発として外すことはない。胸を撃ち抜かれてばたばたと倒れてゆく。
一人、二人、三人、四人……
数える間もない。
しかし、相手はたった一人で立ち向かうには人数が多すぎる。
全てを撃ち倒す前に、直江の銃口の向いていない方向の人間たちが彼に照準を合わせていた。
「危ね……!」
シュッ……
まさに彼が撃たれようとしたそのとき、空を切り裂く音とともに、男たちの喉に小刀が突き立った。
ソファの陰から躍り出たカゲトラが投げたものだ。
ザッ……
その勢いのまま、彼は低く身を伏せて走り、男たちの脚を細刀で切り払った。鮮血が散る。
腱を切られるほどの深い傷とともに、男たちは崩れ落ちる。
その時を狙って、直江の銃が火を吹いた。
―――カゲトラが直江のもとまで走り抜けたときには、部屋の中には開崎を除いてもはや動く者はなかった。
部屋は壁の元の色が何色であったのかもわからないほど、血に満ちている。
絨毯は元々紅いのであまり変化がわからなかったが、踏むと靴の下で湿った音が起こるほどには、血を含んでいるらしい。
パチパチ……
乾いた拍手が部屋に響く。
「なかなかいい息の合わせ方だ。まるでつがいの獣のようだね」
開崎は薄く笑っていた。
里見の男たちが自分をかばって斃れたことにも、大した感慨を持たない様子だ。
「開崎っ……!」
今さらながらに、ぞっとする。
こんな男のために、こいつらは瀕死の状態になるまで身を挺したのか。
「ようやく、決着だな」
カゲトラは血に濡れた細刀を今一度しっかりと握り締め、男に相対した。
「出て来い。一対一で相手をしてやる」
この期に及んで見苦しい真似はするまい、と睨み上げる。
それをやはりうっとりとした表情で受けながら、相手はキィ、と音をたてて椅子から立ち上がった。
「……」
直江がその胸にぴたりと銃口を合わせる。先ほどまでの猟銃は既に捨てて、今手にしているものは愛用の拳銃だった。
相手が下手な動きをしようものなら、問答無用でその銃口が火を吹くはずだ。
だが、開崎は比較的おとなしく、ゆっくりと机をまわって向こう側から二人の前に出てきた。
その手にあるのはカゲトラが握っているものと同じ『細刀』。ただしこちらは白刃だった。美しい波の文様が浮き出た刀身は、【村雨】とも呼ばれる最高級品。見た目以上に強靭な刃であることも、最高級の名前に恥じなかった。
「これで満足か」
それを左手に、そして鞘を右手に構えて、カゲトラと向き合った開崎はにやりと唇を歪めた。
元が怜悧な顔立ちであるだけに、こういう表情をしたときの迫力には力があった。
尤も、カゲトラの眼光に比べれば、ものの数ではなかったが。
彼は一瞬たりとも目を離すまいというように相手をひたすらに見据えている。
その瞳に燃えるものは、深い深い憎悪。
ただ単に、今回の事件で煮え湯を呑まされたというだけではない暗さが、そこにはある。
「ようやく、お前の前まで来ることができた」
彼は恐ろしく冷えた声で、そう言った。
「長かった……」
「ほう?」
開崎の方には心当たりはないようだ。片方の眉だけを器用に吊り上げて、胡乱そうな眼差しを返したのみだった。
「覚えていないというのなら、思い出させてやるまでだ……!」
カゲトラが床を蹴った。相手も同時に跳んでいる。
ガキッ……
宙で、二つの剣が激しく火花を散らした。
そのまま打ち合いに雪崩れ込む。
打ち合っては退き、打ち込んではかわされる。
どちらの額にも汗が浮かび、こめかみに血管が浮き出ていた。
シャァ
走る、白刃と黒刃。
滑り、ぶつかり、火花を散らしては離れる。
ゴツッ
「ぐっ」
開崎の右手の鞘がカゲトラの左肩を深く突いた。
直江が目を見開く。
―――油断した。
鞘と合わせて両手使いをする男だとは知っていたのに。
剣の方で精一杯で、忘れてた……
衝撃にバランスを崩したカゲトラに、開崎の刃が迫る。
ダダダダン!
倒れたのは開崎の方だった。
四肢に穴を開けられて、彼は壁に叩きつけられた。
そこに、さらに銃弾が打ち込まれ、腹に穴が開いた。一呼吸おいてから、ずるりとその体が床へ滑り落ちる。
後には真っ赤な引き摺り跡が壁に残った。
「……楽には死なせてやらん。急所は外したぞ」
直江の銃口から煙が立ち昇っていた。彼は倒した相手の傍へつかつかと歩み寄ると、戦闘能力を失ってなお瞳の光を衰えさせない開崎に、視線だけで殺せそうな眼差しをくれてから、カゲトラに向き直った。
「すみません。あなたのお邪魔をしてしまいました。けれど……どうしても一太刀つけてやらなければ気が収まらなかったものですから」
そう言って目だけで謝罪の意志を伝えると、後は手出しをするつもりはない、と少し離れたところまで下がる。
腹へは臓器が集中しているが、だからといって一発貫通銃創を受けた程度では死にきれない。
絶え間ない苦痛が襲い来るだけで、その拷問は放置すれば一日も二日も続くのだ。
直江はそこまで相手に時間を与えるつもりはなかったが、とりあえずこれで自分の方の気は済ませることができた。
「いや……オレの分、残してくれてありがとう」
カゲトラはそう言って軽く頭を下げると、開崎の前に仁王立ちに立った。
彼は今なお陶然と見上げてくる男の瞳に焼き付けようとするかのように鋭い瞳で射抜いて、そのままで彼は自分のシャツの襟元に左手を掛けた。
ビッ……
力を入れて引き裂くと、ボタンが三つほど弾け飛び、上半身の左側が首筋から鎖骨、胸の半ばまで露になった。
その肩の付け根に、酷い傷跡があった。
一見して随分古いものだとわかる。肉を抉られて、それが引き攣れたような痕を残したものだ。
銃創の、痕だった。
「これに見覚えはないか」
カゲトラは開崎に向かって、そう声を投げた。
いらえはない。
「オレは忘れてなんかないぞ……あのとき、強盗なんかじゃなかった……!お前らの抗争に巻き込まれてオレの家族は……っ」
カゲトラはふいに叫び、細刀を振り下ろした。
「ここに!ここにも!お前たちのせいで、父さんと母さんは全身……っ!」
肩に、胸に、腹に、刃を突き立てる。
新たな血の匂いが広がった。
開崎は動かない。
呻き声一つ上げずに、カゲトラの刃を受けている。
覚えている。
あのとき、死ぬほど綺麗な漆黒の瞳で自分を射殺すほど睨みつけていたのは、あれは君だったのか。
だから、こんなにも魅せられたのか。初めて美しいと思った、あの瞳―――。
カゲトラ……
呟いた小さな言葉は相手には届かなかった。
「クリスマスだった。キラキラして、人だらけのデパートの中で、お前たちは突然、銃撃戦を始めて……大きなクリスマスツリーを見上げていたオレと美弥の首に腕を回して盾にし、お前は相対していた男を撃ち殺した。
その男の周りにいた人間たちが反撃を返してきたとき、父さんと母さんはオレと美弥の前に体を投げ出して……全身穴だらけになって崩れ落ちた。お前はそれに目をくれることもなく、用はない、とばかりにオレたちを放り出して走って行ったんだ。
この肩の傷は母さんの体を貫通してきた弾が抉りこんだものだ。
知らないなんて言わせない!
あれからオレがどんな道を辿ってきたか……、特捜入りしたこと自体が語っているけれどな。オレは、お前をこうして自分の手で殺すまで、それだけを頼りに生きてきたようなもんなんだ……」
父親と母親の体に開いた風穴を、今でも忘れない。
覚えている限りのその場所を、そっくりそのまま相手の体に刻んでやる。
ザクリ、ザクリ
音がするたび、鮮血が彼の体を……露になった左半身の肌をも、真っ赤に染め上げてゆく。
修羅のようだった。
その壮絶なまでの美しさに、直江はしばし、息を忘れていた。
そして、ようやく全てを刻みきったとき。
開崎は全身を血に沈めていた。辛うじて息だけはあったけれど。
「父さんの……母さんの……そして妹の、仇……っ!!」
カゲトラが開崎を叩き斬ろうと、細刀を振り上げた。
そのまま相手に向かって突進する。
そのとき、ぐったりと力を抜いていたかに見える開崎の手に、きらりと光った白刃に直江は気づいた。
カゲトラには見えていない。
涙で一杯の目には、おそらく見えていない……!
「っ !? いけない、カゲトラ……!」
ひとりでに体が動いていた。
直江はカゲトラと開崎の間に無我夢中で体を割り込ませ、カゲトラが振り下ろした刀を、銃の台尻で受け止めた。
ガキッといやな音がして、その表面に傷がつく。
―――そして。
「……え?」
カゲトラは、自分と開崎の間に入り込んだ男のわき腹に、奇妙に生えた白い刃を認めて、蒼白になった。
「う、そだ……おい!あんた!……おい!」
凍りついたようにこわばっていたその手から、細刀が滑り落ちた。
「相手に近づくときには……決して目を閉じてはならない……習ったでしょう?
何を隠し持っているか、わから、ないから……」
直江はそう言って微笑んだ。
背後の開崎は既に事切れている。最期の力であの刀を振るったのだ。
四肢に貫通銃創を作り、血まみれになった手はまだ刀を握っている。そのままで血の海に崩れ落ちていた。
その顔に、苦しみはない。
死んだ後まで皮肉な笑みを浮かべて、男は横たわっている。
いっそ天晴れというべきだったかもしれない。
「喋るな……!止血するまで、口を利くなぁっ!」
カゲトラはがんがん言い出した頭を必死でこらえながら、直江の傷に手を伸ばした。
しかし相手はその手を押しとどめ、
「大丈夫。かすり傷のようなものです。
それより……そろそろ特捜の連中がここへやってくる。私はもう、消えなければ。
連中とまともに顔を合わせられるほど、明るい道を来てはいないのでね」
そう言って立ち上がった直江を、張りつめたものが一気にとけて床に崩れ落ちていた青年はとどめられなかった。
「そんな傷で動いて……死んだらどうする」
自分の方が死にそうな顔をして、彼は相手を見上げた。
「言ったでしょう。かすり傷です。派手に血が出ましたが、大したことはない。すぐに元気になりますから」
直江は少し顔色が悪いだけで、表情は常のまま。
一番最初の穏やかな笑みを浮かべて、ふと青年の横に屈みこんだ。
「泣かないで」
そう言って目じりを指先でなぞる。
そうされて初めて、青年は自分の視界がぼやけてゆくことに気づいた。
「ばか……野郎……」
歪んだ顔で、それでも強がる彼に、
「泣くのは家にいるときだけにしなければなりませんよ……さっきのようなことになってはいけませんからね。
さあ、目を拭いて」
直江はそう、諭したが、その瞳は限りなく優しく相手を見守っている。
「私が拭いてあげるのは簡単だ。けれど、あなたは自分で、自分の足で立ち上がってください。部下連中に涙なんて見せるわけにはいかないでしょう?
いいですか、―――ジェネラウ」
将長、と官位を呼ぶと、ぴくりと青年は反応した。
その瞳がゆっくりと静まってゆく。
一度閉じられて、再び開かれたときには、彼はカゲトラに戻っていた。
「さあ、立って」
言って、先に直江が立ち上がると、カゲトラもゆらりと身を持ち上げた。
「立てましたね。大丈夫、すぐに特捜の人間が来ますから。少しの辛抱ですよ。
―――それでは、私はこれで」
直江は彼の両肩をぽんと叩くようにしてから、ふと相手の耳元に顔を近づけた。
「私は、直江、と呼ばれる者です―――」
その囁きを残して、彼は青年から手を離した。
廊下へ出る扉に手を掛けたとき、
「なおえ……」
背後からの呼びかけに、一度だけ振り返った。
「オレ……高耶。……仰木、高耶」
自分が何を口走っているのかがよくわかっていない様子で紡がれた、本名を告げる言葉に、この上なく優しく微笑んで、
「それでは、高耶さん……さようなら」
直江は扉の向こうに消えていった。
―――そして、次にその扉を開いたのは千秋だった。
「……カゲトラ!」
飛び込んできた彼は室内の惨状とカゲトラの姿とに軽く目を見張ってから、告げた。
「綾子は俺様が保護したぜ。何だかでかい男が来て、お前がここにいる、って言いながら綾子を車から出してきたんだが、お前の知り合いなのか?」
直江だ。あの男は『特捜の連中に顔を見せるわけにはいかない』なんて言いながら、ちゃんとねーさんのことは身柄を引き渡すまで面倒みてくれたんだな。
「……おい?カゲトラ?どうした !? 何泣いてんだよ?」
千秋が慌てふためいている。
「高耶?」
「ちあきぃぃ……」
青年は親友の首に抱きついていった。
「―――何だよ、珍しいことしてんじゃねーよ……槍でも降ったらどうしてくれるんだ」
そんな憎まれ口を叩きながら、相手は優しく背を抱いてくれた。
『私が拭いてあげるのは簡単だ。けれど、あなたは自分で、自分の足で立ち上がってください』
―――わかったよ。直江。
自分で調べる。お前のことを。名前を教えてくれたから、本当はそれだけでも満足なんだけど。
それでも足りないと、思う。
知りたいと思う。
知って、覚えておこう。
忘れない……。
今夜のことはオレにとって二つ目の、忘れられない出来事になるだろう―――
02/07/22
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