「なぁ」
都会のど真ん中にあってなお、高い場所の空気は清しい。下から吹き上げる粉雪まじりの風を孕んだ白いシャツが、ひらひらと彼の体に戯れていた。
「そんな格好で風にあたるとよくありませんよ」
ベランダの手すりに両手を預けている姿勢から半身をひねって後ろを振り向く彼に、直江はガウンを手にして歩み寄っていった。
「ばぁか。その程度でどうにかなるような柔な体じゃねーよ」
口では笑いながらも、肩を覆ったガウンには嬉しそうに襟を引き寄せる高耶である。
その手に自分の手を重ねて、
「そんなことを言って、あなたはいつも無茶ばかりするんだから」
高耶の左手の掌をぐるぐる巻きにしている包帯に直江は痛々しく眉を顰めた。つい昨日まで恋人を拘束していた任務の仕上げで不注意から負うことになった擦過傷がそこにあるのである。鎖に腕一本で全体重を掛けてしがみ付いたときに負ったそれは、ただでさえ心配性の直江をひどく心痛めさせた。
「……確かにこれはオレのミスだ。―――心配かけてごめん」
僅かな油断が危うく命取りになるところだった。苦い記憶を思い出して高耶は唇を噛む。
「私に謝る必要はありません。心配性なのは私の勝手ですから。―――でも、お願いだからもっと自分を大切にして」
プロとしてのプライドを傷つけられた相手を労わるように直江は首を振って、けれど最後には懇願にも似た囁きを落とす。
怪我をした手を傷つけないように気をつけながら、彼はそっと相手を抱きしめた。
「私の見ていないところであなたに何かあったら、今度こそ俺は気が狂う……」
黒い髪に鼻先をうずめての呟きは、むしろ切ないほどの思いに溢れたものだった。
今度こそ。
一度ならず二度までも大切な者を喪ってきた彼には、三度目は耐え難い。一度目はあまりにも突然に。そして二度目ではつまらない拘りが邪魔をして手を離してしまった。
三度目は、絶対にあってはならない。他者に奪われるくらいならそれよりも先に掻っ攫う。身の破滅よりも恐ろしいのは喪失の痛み。
もう、一度だってさせない。自分の知らないところで、あるいは自分の臆病さのせいで、誰かを喪うことは。
度を越えた心配性は百も承知で、それが自分の傲慢、我が侭であるということもわかっていて、それでも決して退けない。
あなただけは何があっても手放さない。
「うん……ごめんな……」
普段と様子の違う恋人に、その腕の中にある青年は、理由をわかっているから呟く。
ゆっくりと身を翻してまっすぐに相手の胸に抱きつき、その背に腕を回した。
「大丈夫……お前のいない世界からでも戻ってきたオレなんだから……大丈夫、何があっても耐え抜ける」
死神と取引してでもお前のもとへ戻るよ……
「だからお前も絶対にオレの手を離さないで」
見上げて唇を重ねると、しっとりと落ちてきた相手のそれが言葉を紡いだ。
「何度でも言います。私からあなたの手を離したりは絶対にしない」
決して手を離したりしない。
掻っ攫ってでも、傍にいる。
ストーカー行為と紙一重でも、あなたの背を守る。
それを止める日がくるとすれば、それはあなた自身が俺を拒絶したときだけだ。
あなたの心が本当に離れてしまったなら、今度こそ俺は独りになる。
けれどそんな日は来ないとわかっているから……
決してあなたを放さない。離さない。
高耶は至近距離で直江を見つめて、瞬きもせずに唇だけを動かした。
ひたと目を合わせて、縋るような眼差しで。
直江はそれを受け止めて微笑む。
「オレが傍にいなくても―――?」
「あなたがどこにいても」
「オレがお前を見なくても―――?」
「あなたが私を見過ごしても」
最後に高耶は泣きそうな顔で問うた。
「オレが……お前を忘れても―――?」
今もまだ傷口から血を流し続けている彼に、直江はこのうえなく真剣で熱い眼差しで微笑んだ。
「大丈夫。思い出させてあげるから。何度でも……」
ゆっくりとこぼれ落ちる澄んだ涙の粒を、彼は頬ずりして受けた。
「怖いのなら何度でも確かめていいから。何度でも言ってあげる。あなたは大丈夫……たとえ何が起こっても俺が思い出させてあげるから。大丈夫……」
打ち消しても打ち消しても湧き上がってくる不安に、根気よく何度でも応える。
いつかまた忘れてしまうのではないか、そのときにはもう呆れ果てて相手にしてもらえなくなるのではないか、そんな根強い不安が高耶を苛んでいる。
その恐怖が子どものように何度も口をついて出てくるのだ。
いつもいつも確認し続けていなければ不安で心が潰れてしまう。彼の中にある二度の痛手が、そこまで彼を追いつめた。
だから、そのたびに何度でも彼を安心させてやるのだ。
むしろ自分こそがあなたにとって重荷になっているのではないかと思うほどだ、と。それは彼を宥めるための方便ではなくて事実だから、彼にはきっとまっすぐに伝わるはず。
しがみつくように抱きついた高耶は直江の囁きに子どものように頷き続け、
そして―――やがて、長い吐息をはいた。
それを最後に、彼はもう膝を抱えて蹲る子どものような表情はしなかった。
「……直江」
そっと顔を上げ、綺麗な微笑みを浮かべて相手を見つめる。
眼差しを受け止める相手の微笑みの方が、まるで泣きそうに見えた。
「―――直江、寒い……」
高耶は目を細めて相手の首に両腕を回し、ゆっくりと伸び上がった。
甘えるように囁くと、相手の腕が背中をしっかりと抱きしめてくる。
「中へ入りましょうか」
熱い囁きがじんわりと体中にしみわたってゆく。
「うん……」
ベランダの外では、まだ粉雪まじりの風が吹いている。
「……手、大丈夫?」
浴室の手前で、冷えた体からガウンとシャツを落とした高耶に、直江の手が伸びて左手の手首をそっと掴んだ。
濡らしてもいいのかという問いと、動かしていいのかという問いである。
「洗わないと却って治りが悪いからな」
高耶は左手を持ち上げて包帯の片端を噛み、もう片端を右手で解いて、くるくると器用に剥ぎ取った。
その仕草を見つめる直江の眼差しに居心地の悪そうな顔になって、彼は口を開く。
「何見てんだよ?やりにくいじゃん」
軽く唇を尖らせる彼に、相手はふと正気に返った様子で首を振った。
「ああ、すみません。
……ちょっと、見とれてしまいました」
「は?」
台詞の後半を聞きとがめて高耶が声を変えた。瞳が丸くなっているのは、突拍子も無いことを聞かされた驚きのためであろう。
「……今、何て言った?」
非常に疑わしそうな眼差しになって彼は問う。
問われた方はにっこりと笑いかけて答えた。
「見とれていました。かっこいいものだなぁ、と……」
「何だとぉ !? 」
今度こそ高耶は叫んだ。
「オレがかっこいい?かっこいいだと?それはお前だろうが!
なぁにとぼけたこと言ってんだ、バカッ!」
真っ赤になって叫ぶ様子は照れているとしか見えない。しかも、どさくさに紛れて相手への惚気まで口にしてしまっているあたりが何とも可愛らしい。
相変わらず初々しい恋人に、年上の相手はさらに笑みを深めた。
「お褒めいただき」
嬉しそうに目を細めて、彼は相手の頬に掠めるようなキスを落とす。
途端にざわりと産毛を震わせる相手が愛しくてたまらない。
「鳥肌が立っていますね……そんなに寒いの?」
意地悪くそんなことを囁いてやると、相手は憤然と恋人を振り払って足音も荒く、浴室へと消えていってしまった。
「いちいち反応が可愛いんだから……もう」
やめられない―――と一人笑う男に、
「なんか言ったか!」
ガラス扉の向こうから怒気を含んだ声が飛んできて、彼は慌てて返事をした。
「何でもありません」
すると、しばらく沈黙があってから、今度は小さく返事が返った。
「……来ないのかよ」
拗ねたような誘い方が、再び恋人を喜ばせる。
「今行きますから。―――寂しがらないで」
笑いを含んだ声に返ったのは、
「だ、誰が寂しがってるんだよ !? 馬鹿野郎!」
やっぱり元気な叫び声だった。
一週間のあいだ、都会の真ん中、天に一番近い白い楽園では、出逢って五度目の新たな年を迎えた二人の賑やかな遣り取りが絶えることはなかった。
あるいは拗ねるように尖った声が。
あるいは甘えるような柔らかな声が。
あるいは宥めるような穏やかな声が。
あるいは甘やかすような優しい声が。
あるいは……
互いだけが知っている、愛しい吐息―――
03/03/14
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