松本市の山手にある団地にも、クリスマスがやってきます。
それは勿論、お師匠様にしごかれ続ける毎日を送っている脱サラ豆腐屋見習い男にも。
ワケあって両親無しに暮らすつつましい兄妹たちにも。
粉雪とともに、クリスマスは訪れるのです。
さて、世にも反則な超絶イイ男のチャリ豆腐屋と、時代も違う神田川な生活を健気に生きる兄妹との物語。ちょっと進歩するクリスマス編、
これより開幕いたします〜
「ただいま、お兄ちゃん!」
古くて狭い団地の一室に、少女の愛らしい声が響き渡る。
もともとは家族四人で暮らしていたこの部屋に、現在住んでいるのは彼女とその兄の二人だけ。
ゆえあって両親は兄妹と離れ、各地を転々としながら時折仕送りを続けている。
兄妹は、兄が高校三年生、妹は中学二年生という、どこをどう考えても親の庇護が必要な年齢であるが、二人は二人なりに一生懸命頑張って生計を立てているのだった。
兄は大衆食堂でコマネズミのようにきりきり働き、受験生という理由で去年よりもシフトを減らした分を、妹が厨房に入ることで収支をゼロにしている。年齢的には就労が認められない彼女なので、働いた分の手当ては現物支給にしてもらっているのだが、それは二人にとってはむしろ都合の良いことだった。少なくとも夕食と朝食については心配しなくてもよくなったのだ。
(昼については例の涙の差し入れ弁当で賄っている。ちなみに本日の当番は一号棟の西さんで、豪華にもカツサンドだった。兄妹はそれぞれの学校で弁当箱の蓋を開けて感動の叫び声を上げ、周囲から注目を集めることになった。尤も、彼らの境遇を知る友達は、なるほど今日の昼ご飯は贅沢品だったのだな、と頷いただけだったのだが。)
さて、そういう兄妹の暮らす狭い団地の一室に妹が只今帰宅したわけなのだが、靴をきちんと揃えて脱いだ彼女がリビング兼ダイニング兼客間兼兄の寝室であるところの六畳間に二歩で到達して、どさりと畳の上に置いた物は、いつもの通学鞄だけではなかった。
「お帰り、美……」
小さな洗面所から、濡れた頭に手ぬぐいをかぶせて片手でがしゃがしゃやりながら姿を見せた兄が、妹に声をかけようとしてその場に固まる。
―――妹が重そうに畳へ下ろしたのは、彼女の通学鞄と、明らかに男物の革鞄。
「み、み、美弥!おまえ、まさかッ!」
可愛くて気立ても優しく経済感覚もばっちりで家事全般プロ級という好条件にもかかわらず、これまで彼氏の一人も持っていなかったこの妹が、今日とうとう男を連れてきたのかと兄は瞬時にピシャンと背筋を伸ばした。
「とうとう、か、彼氏ができ……」
「あ、どうぞ、リカちゃんハウスみたいに狭い家ですけど、上がってください〜」
奥歯をカタカタ言わせながら妹に言葉をかけた兄を遮り、妹が、あちこちへこんだ金属製の細長い玄関扉へ声を掛ける。
「だーっ、待て、ちょっと待て、兄ちゃんこんな格好で会えってのか !? せめてパジャマじゃないのを着るまで待っ……」
相手がどんな男か知らないが、父のいないこの家では兄の自分が妹の保護者だ。あまりにも威厳の無い格好でなんか迎えられるものかとタンスへ飛びついた愛すべき兄だったが、
「すみませんね、私の鞄を美弥さんに運ばせてしまって。お邪魔します」
キィィと古ぼけた音を立てて扉を開けた男の声に、彼は文字通り飛び上がった。
「……」
その、腰に響く恐ろしくイイ声は、低くて落ち着いたたまらない美声は……
「あ、こんばんは高耶さん。突然お邪魔してすみません」
くるりと振り返ったところに、リカちゃんハウスに間違って紛れ込んだ戦隊ものヒーロー人形―――否、生身の王子様が―――いた。
超一流モデルと言っても誰も疑わないであろう、みごとな体躯と、ギリシャ彫刻に命を吹き込んだような美貌の、しかし実体は脱サラした豆腐屋見習いという希有な男。
そして、少年の微笑ましい初恋(現在進行中)のお相手でもある男。
「な、な、なおええええ―――ッ !? 」
少年はその男が自分の家に、天井に頭がつきそうな小さな家に、立っているのを視認して、団地中に響きわたるほど絶叫した。
「そ、お兄ちゃんにクリスマスプレゼント」
妹は兄の絶叫を笑顔でやり過ごし、居場所に困っている男を引っ張って、リビング兼ダイニング兼客間兼兄の寝室であるところの六畳間の真ん中に申し訳程度に置いてある、小さな丸い古ぼけたちゃぶ台の前に座らせた。
「プレゼント !? 」
目を白黒させながら妹と男とを交互に見ている少年は、頭から滑り落ちた手ぬぐいにも気づかない。
「なんかね、東川のおじいちゃんに追い出されちゃったんだって。団地の公園で淋しそうにしてたから拾ってきちゃった。ついでにケーキまで買ってもらっちゃったの〜」
男が自分の鞄を少女に持たせたのは、ケーキを崩さずに運ぶのに両手を必要としたからであるらしい。
「追い出された !? 」
「どうせいまどきクリスマスに豆腐なんぞ買うヤツはおらん!今日は休みじゃ。どこへでも好きなところへ行け!―――といわれまして」
男はそのケーキの箱をちゃぶ台に置いて、困りましたよというように首を振っている。
「行きがけの駄賃に、これも」
ぶらん、と差し出したのは、東川の純白の絹ごし豆腐である。
「あ、絹っ!」
兄妹の目にはそのつるんとした白がまるで光り輝くほど美しく映るのだ。普段は倹約のために木綿しか買えない二人にとって、絹ごしの極上品は手の届かないところにある。東川の豆腐が実際にとても美味しいものだと知っているから、彼らにとってその白い直方体はあこがれとも言える逸品なのだ。
「……って、行きがけの駄賃に豆腐をもらってどうすんだよ。行くあてがないなら豆腐持ってても仕方ないだろ?まさか生で食うとか?冷奴の季節じゃないぜ」
「いえ、どこかの料理屋で持ち込み鍋でもできないかなぁと思いまして」
「鍋?豆腐で?湯豆腐鍋か?しかも持ち込み?一人で?それはちょっとびっくりだな……」
「しょうがないでしょう。師匠のお豆腐無しでは一日も生きられぬ身なんですから」
「うわ〜さすがは直江。ほんとにじいちゃんに惚れてるんだなぁ」
「何と言っても私の人生を変えてくれた人ですからね。特別ですよ」
「脱サラしてまで弟子入りしたんだもんな。よっぽど惚れ込んだってことだな」
「そのとおりです」
妙にほのぼのした会話に興じている男二人をよそに、妹はきょろきょろと一間を見回して首をひねっている。
「ん〜この部屋にお兄ちゃんと直江さん二人寝てもらうのかなりキツイよね〜どうしようかなぁ」
その呟きに、飛び上がるほど驚いたのは兄である。
「寝る !? 」
「うん。だって美弥が直江さんと寝るわけにいかないでしょ?そしたらここしかないじゃない」
「そりゃそのとおりだけど!そうじゃなくて、なんで直江がここに寝るんだ?」
「だって、行くところがないって直江さん言うから、よかったらうちに泊まりませんかって誘ったの。クリスマスなのに一人なんてつまんないでしょ」
「すみません本当に突然お邪魔して」
「や、直江が謝ることなんか何もないけど!……でも、ほんとにこんなとこにいていいのか?東川のじいちゃんもたぶん、ほんとは直江のために休みをくれたんだと思うぜ?彼女とか、ほっといていいのかよ」
「いえ、好きな女性はいないんですよ」
「そう、好きな女性はいないんだって」
妹がいつの間にか沸かした湯を急須に注ぎながら、男の言葉を一部強調して復唱するのを、
「そっか……」
兄は大して気づかずに聞き流す。
彼の頭の中は、『直江が今夜このうちに泊まる!』という超ど級の変事に半ばパンクしかかっているのだ。
むろん、困っているわけじゃあない。はっきり言って、妹の『お兄ちゃんにクリスマスプレゼント』という言葉のとおり、このまま羽が生えてお空の彼方まで浮いていきそうなほど、嬉しい。思いがけない幸せだ。
それなのに、
「えっと、でも、実家とかは?そんな遠くじゃないんだろ?たまには顔見せてあげたほうがいいんじゃねーのか?」
と口にしてしまうのは、パニックしてしまっているせいだ。
好きな人がうちに泊まるという一大チャンスをありがたく受け入れるよりも、照れと混乱が彼の中では大きいのだ。
(何言ってんのお兄ちゃん!このチャンスを生かさないでどうするの!)
と目を光らせて無言で訴えてくる妹にたじろぎつつも、
「家帰ってあげたほうがいいって……」
ついつい俯いて擦り切れた畳を引っ掻いてしまう、純情な少年なのだった。
「あ、ええと、やっぱり迷惑ですよね。突然泊めてくださいだなんて」
こちらはこちらで、少年の戸惑いを悪い方に解釈して、腰を浮かしかける男だ。
脱サラするまでは数多の女性と浮名を流した男だが、豆腐屋に弟子入りして以来、奥様連(の財布)を虜にするための微笑み以外では全く清らかな生活を続けてきたために、天性のカンも鈍っているらしい。
「えっ!いや、そういうことじゃなくて!」
純情兄はびっくりして顔を上げるが、
「でも兄妹水入らずのクリスマスに図々しく割り込もうなんて、悪いですよ……しかもこの図体で」
六畳間が四畳半に見えてしまう欧米人体格の男は、その大きな体を精一杯小さくして首を振る。
「いや、そんな……」
「でも……」
どうにもこうにもじれったい二人を、一喝したのは、
「ああっ!ごめんなさいっ!」
淹れたばかりの茶をちゃぶ台にぶちまけて、男の大事な作務衣にその飛沫を意図的に振りまいた妹のアクションだった。
続
03/12/24
豆腐屋直江さん再来!(爆)
突如クリスマス編として再登場の豆腐屋です。
そして続きます。たぶん前後編でいけると思いますが、魁のことですからもしかしたらもっと伸びるかもしれません。
さて、久々の豆腐屋直江さんはいかがでしたでしょうか?
ご感想などbbsにでもいただけたら嬉しいですvv
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何とも突然ながら、クリスマス企画。