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終章 『一緒に』
この顔を見つめる男の瞳は、夢を見ている駱駝のように、長い睫毛の下でけぶっている。
男は今でも母のことを好きなのだ。もうどこにもいない、ただオレの顔に面影だけを残した彼女を。
「先生は……ほんとにお袋のこと好きだったのか?本気で?」
それほどまでに。花の下で号泣するほどに。
「直江でいいですよ。俺の元の名前です。
息子さんに話すのもどうかと思いますが、本気でした。海外赴任が済んで帰国したら迎えに行くつもりでした。どうにか一人前と言えるくらいにはなったつもりでしたから」
男は一つ瞬いて瞳をいつもの色にし、まっすぐにこちらを見ながら頷いた。
『元の名前』というのが気になるところではあるが、本題から外れると戻ってこられなくなるかもしれないので、取り合わず続ける。
「わからないな。……いや、先生が本気なのは信じるとしても、なんでそこまで?お袋なんかずっと年上だし美人でもないしコブつきだぜ?なんであんたみたいな選り取り見取りの奴がお袋を?」
「直江です。―――あなたから見れば俺の行動は理解できないようですね」
その名前で呼んでほしいのかもう一度繰り返し、彼は少し笑った。苦笑いというのか、無邪気な子どもの台詞を可愛く思っているような、あまり向けられて嬉しくはない種類の微笑みだ。
「できないな。だって、おまえは客観的に見てかなりお買い得な男だと思うし、周りが放っておかないだろ。お袋なんかよりもっと若くて綺麗な人と幾らでも恋愛できたはずだ。それなのにこうやって本気でお袋を迎えに来ようなんて、勿体無いっていうか、お人よしっていうか……悪く言うとバカだと思う」
子どもでなくてもそう思うだろう。この男が一回り以上も年上のコブつきの女をずっと好きで、本気で迎えに行こうと思っていただなんて、誰が聞いても間違いだと言うだろう。
けれど、目の前の男はきれいな茶色の瞳をぱちくりとさせてから、また目尻に皺を刻んだ。
「俺は決してバカがつくほどのお人よしじゃありませんよ。もしかしたら、他の人と本当の恋愛ができない理由にしていたのかもしれない……彼女のことを。
でも、一つだけ確かに言えることは、俺にとって彼女以上に大切な人はいないということです。両親を喪って、すべての感情を忘れた俺に、もう一度、心の存在を思い出させてくれた人。
彼女が俺をもう一度生まれ直させてくれたんです。そして、数年後の一件で、今度は逆に彼女を『守りたい』と思わせてくれた。『守られ愛される』ことと、『守り愛する』ことの両方を……彼女は俺に教えてくれたんです。ありとあらゆる感情を、彼女が俺に与えてくれた。だから俺は壊れずに人間として生きてこられた」
誰が聞いたって、ばかな話だと思う。
自分の価値に気づいていないにも程がある。使い方を間違えている。
誰だってこんな話を聞いたら、諭してやるべきだ。前を向いて、似合いの相手を探せと。
でも……オレには男の言葉を否定することなんてできない。
早くに夫を亡くして、それから一人で息子を育ててきて、新しい幸せを手にする間もなく逝ってしまった彼女を、ここにずっと想ってくれていた男がいる。それを否定することなんて、できない。
たった一人しかいない、彼を、背を叩いて送り出すことなど、できない。
「なあ、先生」
息を吸って、決心を固めて、男の目を見る。
「直江です」
穏やかに笑うくせに実は頑固らしい男は、また同じことを言う。どうしてもその名前で呼んでほしいようだ。
「じゃあ、直江。今どこに住んでる?」
「は?」
突拍子もない台詞に茶色の瞳が見開かれる。きっと犬なら耳をぴくりと持ち上げているところだ。
「普通のアパートです。それほど遠くではありませんが……。そうですね、長居をしすぎました。すみません。」
「そうじゃない」
首を傾げて、一番辻褄の合う説明に思い至ったらしい男は瞼を伏せて寂しげに呟いたが、こちらにその意図はない。
「それ、持ち家とかじゃないよな?」
「ごく普通の賃貸です。あの……?」
困惑した大型犬は、茶色い瞳の奥をゆらゆらとざわめかせながら僅かに首を傾げてこちらを見ている。これが街角に座っている捨て犬なら迷わず拾って帰ってしまいそうな愛らしさだ。
母の目にもこの男はこんな風に見えていたのだろうか。無論、彼女はその立場上、彼を拾って帰るわけにはいかなかったが。
オレは違う。
「おまえはお袋を迎えに来たんだよな?それで、一緒に暮らしたかったんだろう?」
手を伸ばして茶色い頭をなでなでしたい衝動をどうにか抑えつつ、問いかけた。自分は一高校生で、相手は立派な大人である。まして学校では教師という立場にある相手だ。いくら犬属性でも、そういう行動に出るのは許されまい。
「はい。今となっては叶わぬ夢ですが」
優しい瞳の奥に涸れない涙を隠している男は、もう決して手に入らない夢を憧憬するようにゆっくりと一つ瞬いた。
手に入らないとはわかっていても、欲する心を無くしてしまうことはできない。そんな目をしている。
それなら。
「じゃあさ、しばらくこの家に住まないか?お袋が暮らしてた家だ。アルバムもあるし、生活用品は殆どそのまま残ってる。おまえがつらくなければ、越してきていいぞ」
男は今度こそ本当に固まった。予想外の台詞だとかその程度の問題じゃなくて、夢にも思わなかった言葉を耳にして自分の聴覚を疑ったのだろう。
まして相手は昨夜までハリネズミみたいに自分を警戒していたのだ。まさかこんな申し出をしてくるなど、現実とは思えなくて当然かもしれない。
「もういっぺん言ってほしいか?おまえがそうしたければ、ここに越してきていいって言ったんだ」
あんまり長いこと返事が戻ってこないものだから、同じことをもう一度言う羽目になった。
男はようやくこれが現実だと認識したようで、溜め込んでいた呼吸を吐き出した。たったそれだけの動作が彼にはとてつもなく緊張を強いたらしい。
「―――本当に……?ここはあなたの家でしょう?他人を入れてもいいの?」
低くて甘い男の声は、僅かに震えてさえいる。伸ばされた手が本当に自分を拾ってくれるのか不安に揺れる捨て犬のように。
「この家の持ち主であるオレがいいって言ってんだ。お袋の息子であるこのオレが住んでるんだぞ。」
―――お袋仕込みの味噌汁、食べたくないか?
自分がうまく笑顔を作れているかどうか自信はなかったが、男の顔にもつられたように微笑みが広がっていったから、きっと成功していたのだろう。
そしてうちには二年ぶりに家族が増えた。
共に両親を失い、誰にも癒せない大きな穴を身の内に抱えた大きな子どもと小さな子ども。
そんな二人でも、共に暮らせば家族といえるだろう。血のつながりなどなくとも。
オレとヤツの間には、彼女という確かな絆があるのだから。
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