epilogue







「どうしてあなたは俺をここに置いてくれるの?」


 二人の生活にもすっかり慣れた幾日か後、夕食を済ませて食器の片づけを終えた二人が、習慣と化しているお茶の時間に入ったとき、ラグの上にぺたりと座り込んで気に入りの紅茶を一口ゆっくりと味わった男が、同様にしてマグに鼻先をうずめている少年にふと問いかけた。
 唐突な質問のようだが、男は幾日もの間、きっと話し始めるきっかけを窺っていたのだろう。折角手に入れた居場所を手放すことになりはしないかと憂慮しながらも、訊かずにはいられなかったのだろう。
 逆の立場であったなら、こうして共に暮らそうとはとても言い出さないだろうと自らの胸は答えるから。

 そうだな…… と、少年はマグをテーブルに戻して、ソファに頭を凭れさせた。

「そうだな……お袋を知ってる人間と話がしたかったのかもな。親父が先に死んでるから、お袋のこと覚えていてくれる人間なんて滅多にいなくてさ」

 ぐーっと伸びをして天井を仰ぎながら、そんな風に答えた少年である。

「教え子の皆さんは?」
「おまえと同年代とかおまえより若い人間ばっかりだろ。みんな忙しい盛りだし、お袋のことそこまで思ってくれる人はなかなかいないよ。
 学校の先生ってそんなもんだろ。相手にするのはいずれ卒業していく子どもばかり。長い教師人生といっても、個々の生徒から見れば短い時間だ」

 少し淋しそうに笑い、少年は天井越しに何かを見ているような目をしている。

 決して楽な仕事とはいえない職業に短い生涯を掛けた母の、内心が幸せであったのかどうかを窺い知るすべはないけれど、傍目には苦労の方が少し勝っているように思えた。夫を早くに亡くすという不幸も考え合わせると、彼女の禍福が釣り合っていたとはどうしても思えない。

 けれど――― ここにいる男の存在だけは、きっと紛れもなく彼女の教師人生の幸福な方の面に分類できると思う。

「確かに、俺ほど手を掛けて面倒を看てもらった生徒は少ないでしょうね。二年近く独り占めしていましたよ、俺は」

 この男は彼女を思い出すだけでとても幸せそうに笑うから。その名を口にするだけで瞳が優しい光をたたえるほどに。

「じゃ、お前もオレもお袋の息子なわけだ」
「そうですね。俺の中ではたった一人の女性でもありましたが」
「その息子の前で言うなよな。あてられちまう」

 一生徒からこれほどまでに思いを返されることはきっと少ないだろう。
いや、教師だの生徒だのという関係を抜きにしても、これほどまでに誰かから思われることはどんなに幸せか。
 今はもういない彼女を、少し羨ましくも思ってしまう。

「しょうがないでしょう。彼女にそっくりな人が目の前にいるんだから。ついつい言いたくなります。……本当は本人に言いたかったんですけどね。それだけは悔やんでも悔やみきれない」

「……あのさ」

 少年は遠い目になった男に手を伸ばしてその額に触れた。俯き加減の額を隠した前髪を梳くようにして、僅かに潤んだような瞳を見つめる。

「オレの意見だけど、お袋は……おまえのこと好きだったと思うぜ。たぶん、約束もずっと覚えてた。現実におまえが迎えに来ることを信じてたわけじゃなくても、お袋の中では一つの夢として大事にされてたと思うよ。だって、お袋はまだ若かったのに、再婚もせずに頑張ってたんだ」

 少年の真剣な眼差しが男の瞳を見開かせる。

「オレはときどき聞いたんだ。再婚したい相手とかいないのかって。親父が死んだのがオレが六歳のときだろ。父親の顔も思い出もあんまり残ってないから、お袋が一人で淋しいんじゃないかって思ってた。だから、そういう相手がいたら再婚してもいいよって言ったんだよ。
 でも、お袋は取り合わなかった。今更そんな暇ないわよってさ。でもさ、暇がないんじゃなくて、その余地がないんだよな。もう既に誰かがいるんだよ。心の中に。そんな気がした。……それが誰か、想像しかできないけど、親父だけとは限らないだろ」

 少年は優しくて穏やかで、そしてちょっぴり淋しい茶色の瞳に、ゆっくりと語っていった。

「……ありがとう」

 男は茶色の瞳を見開いて少年の言葉を聞いていたが、長い間かけてそれを咀嚼し終えると、たった一言を呟いた。
 先ほどまで寂しさを隠せなかった瞳が、今は光が射したようにきらめいている。

 男はようやく、『彼女』の答えに辿り着いた。

「……いや、礼を言うのはオレのほう。お袋を好きでいてくれてありがとう。迎えに来てくれてありがとう。お袋のために泣いてくれてありがとう」

 高耶は初めて、くしゃりと顔をゆがめた。

「高耶さん……」

 男は初めて年相応の顔を見せた少年に、はっと目を見開く。ぽろぽろ涙を落とす少年を広い胸に抱きこみ、その背を両腕で包んだ。

「オレ……嬉しかったんだ。お袋のことを覚えてくれてる人間に会えて、ほんとに嬉しいんだよ」

 男の胸に顔を押し付けながら、少年はくぐもった声で言った。涙をこらえるように、男のシャツを強く掴む。シャツ越しの体は温かくて確かな弾力を持ち、その感触は少年を不思議なくらい安心させた。

「俺こそ、あなたに会えて本当に嬉しい。こうして家にまで置いてもらって、何とお礼を言ったらいいのかわかりません」
「お礼なんていらない。お袋は喜んでるよ。オレも嬉しい。そしておまえも嬉しい。良いことばっかりじゃん」

 柔らかく自分を包んでいる男の胸から顔を上げた少年は、涙を恥じるように目元を拭って、にこりと笑った。

「高耶さん……あなたは本当に、彼女にそっくりだ」

少年の台詞に瞠目した男は、ふわりと目元を和らげて瞳を湿らせた。

「お袋もオレみたいなこと言ってたのか」

「ええ。俺ばかりに構っていていいんですかと聞いたら、あなたは私と話して楽しいんでしょう?そして私もあなたといて楽しいんだから、良いことばっかりでしょ……とね」

「へえ。たしかに似たような台詞だ」

「とても……不思議な感じですよ。あなたは彼女とは確かに別の人なのに、端々でハッとするような言動がある。血のつながりというのはすごいものですね。錯覚はしないけれど、思い出します」

「そういうもんなんだろうな。……で、不思議といえばオレも不思議なんだけど、おまえはお袋のどこに惚れたんだ?女らしさよりも少年ぽさのある人だっただろう。美人でもないし、おしとやかでもないし、料理はするけど裁縫はできない、息子のオレをピアノ教室に通わせるよりも一緒に公園に行ってどろんこ遊びをする、そういう人だ」

「たぶん……本気で惚れてしまったのは、あの人の手だったと思います」

「……手」

「ええ。登校拒否する俺の家へ来て、手を握って外へ連れ出してくれたあの手、……まるで、うずくまっていた俺をすくい上げてくれる天使様のようでした。毎日毎日俺を連れに来て、手をつないであちこちを歩いた。言葉よりも何よりも、つないだ手の優しさと柔らかさが、俺の心を開かせたんです。
 そして、あなたのお父さんのお葬式のとき。つないだ手はいつの間にか俺より一回りも二回りも小さくなっていました。本当は俺がでかくなっただけなんですけどね。つかんだまま走って、そして会場へ戻るまでの道すがら、つないだままの手の感触が……今も残っているんです」

「そうか……」

 高耶は目を伏せて透明な微笑みを浮かべた男に、小さく頷いた。
 その母の血を継いだ自分の手のひらを見つめていると、

「あなたの手のかっこうは、彼女にそっくりだ」

 その手を見つめ、男が吐息と共に呟いた。


「……つないでみようか」


 高耶はそんな男に、そっと手を差し出した。驚いたように目を見開く男へ、はにかみながら微笑む。

「お袋を迎えに来た手、オレがちゃんと受け取ったよ、って……お袋に伝えてやりたい」

 すぐ側へ差し出された右手の平を見つめ、その指の形や刻まれた指紋、柔らかな肉の曲線を、男は喉元に熱くこみ上げるものを感じながら、じっと凝視する。
 やがて彼の大きな手のひらが、おそれるようにゆっくりと伸ばされ、少年の手のひらをそおっと包み込んだ。

「……あのな、あと一個だけ、伝えなきゃいけないことがあるんだ」

 両手の中に包んだ少年の手を大事そうに見つめる男に、高耶は伝える。

「お袋、あの桜の下でオレと一緒のときに言ったことがある。一度だけ、すべてを捨ててもいいと思ったことがあった、って」

 見上げてきた男の瞳が見開かれる。

「あの桜の下でおまえを見たとき、思い出したんだ。……あれは、おまえとのことだよ。きっと」






 見開かれた鳶色の瞳は、ゆらゆらとうるみながらとても綺麗に澄んでいる。
 母親がすべてを捨てて共に生きたいと願った相手は、きっと目の前にいるこの綺麗な瞳をした男。
 教職と、死んだばかりの夫と、幼い息子と、醜い親戚と過去のすべてを捨ててもいいと思わせたのは、今この手を握っている大きな手なのだろう。
 ひたむきな眼差しと、若さゆえの恐れを知らぬ勇気とその輝き、そして大きな手のひら。
 それらが、母の心を確かに動かしたのだ。
 結局は元の場所へ戻った彼女だが、そのときの思いはずっと胸の中に大切にしまいこまれていたのだろう。突然の死が彼女をさらうまで、彼女の心は決して一人きりにはならなかったのだ。
 すべては、この目の前にいる男のお陰。


「佐和先生……」


 じっとオレを見つめて、そして、目を閉じながら呟いた男。
 閉ざされた瞼から、ゆっくりと溢れたのは涙。
 綺麗な……綺麗な、この世で最も綺麗なきらめく宝石。
 人が人を想う、その想いのすべてが凝縮した透明な結晶を……オレは本当に綺麗だと思った。
 それはどんな高価な貴石よりも美しく、尊いものだと思った。
 この男から、今はもういないオレの母親へ、世界でたった一つのココロノカタチ。

 綺麗で……綺麗で……

 涙が出た。



第一部 完

08.06.26

というわけで、第一部終了です。
最後までお付き合いくださって本当にありがとうございました。

もう手の届かない『彼女』に今でも想いを寄せている『彼』と、そんな男をどうしても放っておけない『彼女の息子』が共に暮らし始めるその最初の章でした。
次章はそんな二人の新しい生活とそこから生まれるものについてです。


読んでくださってありがとうございました!
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(image by 新-arata- / midi by Blue Piano Man