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「高校生が喪服の女性を引っ張って走っていたのですから、きっとひどく奇妙な光景だったでしょうね」
男は自らの若さを、青さを笑うように声の端に笑みを滲ませた。
写真の中の、憔悴した血の気のない顔を思い出す。あの母の手を引いて、制服姿の高校生が走って行く。それは確かに部外者が見れば笑ってしまう光景かもしれない。けれど、自分はそのシーンを想像するだけで心臓を圧迫されるような激しい痛みをおぼえた。
想像もしない形で突然に夫を失った母の前に、かつてその母に救われた少年が成長して再び姿を現した。とはいえ、彼はやっと高校生になったばかりで何の力も持ってはいない。それでも取るものも取りあえず駆けつけた彼。
そのあまりにも純粋な想いに……胸が痛む。
「それでも俺は必死でしたが、先生は走っているうちに本来の強さを取り戻したようです。やがて足を止めて、戻るわと先生は言いました。あなたが来てくれて強くなれた、と笑って、一緒に夫を送ってやってと俺を引き止めたんです。
それで、俺は先生に付いてあなたのお父さんのお葬式に出たんです」
唇の端に刻まれた微かな笑みをじっと見つめていると、それに気づいた男は穏やかな犬の表情になって微笑みを唇全体に広がらせた。
「それで終わり?」
今は静かな湖面のように凪いでいる瞳を見上げて問うと、かぶりを振る。
「いいえ、もう一つだけ。俺は家に戻る前に先生に会って、約束しました。学校を出て一人前になったら迎えに行きます、と。高校生だった俺には何の力もなくて、先生を連れてゆくことができなかったけれど、いつか必ず、と。
……けれど、とうとう今日まで先生に再会することはありませんでした。二年も前に亡くなっていたと知って、たまらなくなってあの桜を見に来たんです。そうしたら、昔の彼女にそっくりのあなたがいた。驚きましたよ。幽霊かと思った」
途中で曇った顔は、最後の一言を口にした時には少し笑っているみたいな表情だったが、それがただの仮面で、その下にはあの桜の下で目にしたように涙を流し続けているのだろうことは感じ取れた。
この男はずっと、穏やかな犬みたいな、ちょっとだけ悲しみを含んだ笑顔の仮面をかぶって自分を抑えてきたのだ。
幼少期のつらい記憶を些かなりとも和らげてくれた母までも失ってしまった悲しみは、どれほどのものだったか。
男にとって、母との約束は決して少年時代の淡い思い出などではなく、心の底に刻まれた道標のようなものだったのだろう。いつか必ずと強く心に誓ったそれは、もう永遠に果たされる機会を失ってしまった。仮面をかぶって自分を騙すくらいしか、耐える方法を思い付かなかったのだろう。
二度までも耐え難い別れを経験させられた彼の、それが唯一の自己防衛方法なのだ。
こんなに大きな体をしていても、滅多にお目にかかれないようないい男ぶりでも、ヤツは仮面一枚引き剥がせばきっと、泣き足りない子どもなのだろう。
それでも彼は笑うから、こちらも少し合わせてやる。
「顔がそっくりでも、生憎オレは男だけどな」
外人みたいに大仰に肩をすくめてみせると、相手は少し首を傾げた。オレの好きなあの大型犬ぽい仕草だ。
「いえ。俺は先生の代わりを探しているわけではありませんよ。俺が好きなのはあの顔というわけではないんですから」
ヤツの微笑みはやっと、本物らしくなってきた。
台詞は殊勝だが、眩しいように細められた瞳で見つめられると、どうも混同しているとしか思えない。この男の目は、母の面影を持つこの顔に、どうしようもなくいとおしいと語りかけている。
その瞳が映しているのは確かに自分の筈だが、茶色くたゆたうその表面に映っている少年の姿は、まるで別の人間を見るようだった。
ヤツにはこんな風に見えているのか。細っこくて、何だか小さくて、しかも淋しそうな少年がいる。
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