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簡単な朝食を済ますと、男は静かな瞳で話の糸口を窺ったが、
「とりあえず風呂浴びてこいよ。着替えは探しといてやる。」
と風呂場へ追いやった。こちらにも心の準備というものがある。例のアルバムも出しておいたほうがいいだろうし、茶の間の布団も片付けなければいけない。
それに……どんな立派な大型犬だって、風呂上がりには多少あわれっぽい感じになるのが相場というものだ。そのくらいのハンデは付けさせてもらう。相手はただでさえ迫力のある美丈夫なのだから。
しかしその目論見は逆効果だった。風呂上がりのヤツは水も滴るいい男を地でいく筋金入りの美男子だったのだ。何故こんなのが母親の過去と関係するのか見当もつかない。母は別段美女というほどでもなかったし、童顔ではあるが、可愛いというタイプでもなかった。ヤツが息子のオレを見間違えたぐらいだ。
理由は見当もつかないにしろ、この男が母の過去と確かに交わっていることは既に確証を得ている。自発的にはまず滅多に開けない古いアルバムの中、自分自身にはカケラも記憶にないある一日の記録。真っ黒な人が並ぶ中、写真のほぼ中央にぽつんと混じった薄茶の頭。どこかの制服を身に纏った少年の姿。遠目のそれでも明らかなくらい、際立って整った容姿。
何気なく見ただけなら見過ごしたかもしれないが、桜の下の一件以来忘れることすらできないこの顔。間違いなかった。
父の形見の中から引っ張り出してきたシャツとスラックスは長身の男には小さかったようだが、高校生男子のものよりはだいぶましだろう。それにしてもこの男は体格がいい。
些か小さいシャツとスラックスに身を包んでいても男っぷりは変わらないヤツは、茶の間のラグにぺたりと腰を下ろしてこちらを向いた。その視線が、相手の膝の上にあるアルバムに落ちる。
「小学校のですね。懐かしい。低学年のところを探せば俺もどこかには写っていると思いますよ。」
母の最初の生徒たちの卒業アルバムをテーブルに広げ、ページを繰ってゆく。節のきれいな長い指は美術教師らしく、絵の具の色が染み着いていた。
「ほら、ここに。昔は小さかったんですよ。」
指差した写真は遠足の一場面らしかった。背の順に並んだ子どもたちの先頭から三番目に、確かに面差しの似た少年がいる。今とは違う意味で女性に騒がれそうな天使みたいな可愛さだ。これがこうなるのかと思うと、やはり愛くるしい子犬が今や立派な大型犬になったような感慨を覚えてしまった。
写真の中の子どもは確かに小さかった。目の前にいる六畳間には規格外の大男を思うと、不思議で仕方がない。遺伝子の為せる業というわけだろうか。
「俺は四年生になる春に転校しました。それまでは一応ここに在籍していたんです。」
「一応ってなんだ?体でも悪かったのか?」
そういえば写真の中の子どもはあまり溌剌とした顔ではない。
「体……というか、こっちの方に。」
男は自分の心臓のあたりを指差した。
「どういう……」
「俺は二年生の途中でここに越して来たんです。戸籍も名前も変えて。」
「名前を変えた?」
「両親を亡くしまして、親戚に引き取られたんですよ。まだ子どもだからいっそ戸籍だけじゃなくて名前も変えて新しく生きていった方が本人のために良いと、大人たちは話し合ったらしいです。俺もそのことに異論はありません。俺自身、ショックのせいで記憶が曖昧で混乱していましたから、お前は橘義明だよと言われても抵抗はありませんでした。」
まさかこんな深刻な話が飛び出してくるとは思わなかった。
「そういう事情でここに越して来た俺ははっきり言ってまともな子どもではなかったんです。学校に出て行く気力もなく、一言も話さず部屋に籠もっていました。
転入したクラスの担任だった佐和先生は、そんな俺に根気良く話しかけては学校へ連れ出してくれたんです。塞ぎこんでいてまともに口も利かなかった俺の手を引いて、放課後の校庭を散歩してくれたり、家まで来て話をしてくれたり。
どうにかこうにか俺が学校に復帰したのは全て先生のお陰でした。」
男はアルバムの最後のページ、卒業生に囲まれて笑っている母を見ながら、微笑んでいた。遠くて手の届かない大切なものを惜しむような、悲しみを閉じ込めても気配だけは消し切れていないような、切ない微笑だ。こんなものを生で見ることになろうとは、想像もしたことがない。
「あの頃の俺にとっては、先生が全てでした。家の都合でまた転校することになったとき、あの桜の下で約束したんです。また必ず会いに行きます、と。」
男は思い出を甦らせるように目を閉じていた。その瞼の下に何が見えているのか、想像することはできそうにもない。あまりにも美しすぎて。悲しすぎて。
「……それだけか。昔の恩師っていう、本当にそれだけなのか?」
美しすぎる別れの光景を消し去るのは気が引けたが、黙っていたら肝心なことに辿り着けない。
男は目を開けてこちらを見た。優しい犬みたいな茶色の瞳には微かな痛みがある。
「……いいえ。お察しの通り、俺は佐和先生のことがずっと好きでした。先生は立派な大人で俺はまだほんの子どもでしたから、何も言えませんでしたが。」
幼かった自分を振り返るように長い息を吐く。
「それでお終い?」
「そうですね」
「じゃあ、親父の葬式の写真に写ってる見知らぬ男は誰なんだ?お袋の傍で支えるみたいに立ってる、おまえそっくりの少年は誰だ」
男の瞳は今度こそ、強く揺れた。
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