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ただ、目覚めるとき誰かに傍にいてほしかった。本当のところ、理由なんてそれだけだった。
第五章 真実
次に目が覚めたのは朝だった。といっても早朝だ。まだ太陽も上らない。鳥も目覚める前の外界は静まり返っている。
ゆっくりと上半身を起こし、人の気配を探すと、茶の間の隅に追いやられたソファに寄りかかっている大きな体があった。まだ眠りの中らしい。
次に起きるまでと言いながら、結局朝まで引き留めてしまった。
着替えを提供したわけではないから、男は昼間の服装のまま、上着を掛け布団代わりにして不自由そうに眠っている。
考えてみたらまともな食事すらできていないはずだ。食べたとすれば自分が食べ残したお粥ぐらいだろう。
悪いことをしてしまった。子どもじみた我が儘で。
ゆっくり膝立ちになり、目眩がこないことを確認してから立ち上がってみた。多分熱は下がったのだろう。掛け布団を引きずっていって、ソファに寄りかかっている男の体を覆ってやると、少し気分が落ち着いた。そうっと男の顔を覗きこんでみたが、目を覚ます気配はない。
昨夜は何時まで起きていたのだろう。次に目を覚ました時に向けられるであろう追及を思いながら、じっと待っていたのだろうか。そう言い渡された手前、帰ることもできずに。
今日が土曜だからいいようなものの、平日だったら寝不足のまままた学校へ出る羽目になっただろうに。
考えていても仕方がない。男が目を覚ますまでに着替えて顔を洗うことにしよう。それから何か食べる物。これから長丁場なのだから。
男はよほど遅くまで起きていたらしく、洗面所の物音にも眠りを破られることはなかった。
この分なら台所も大丈夫だろうと中へ入り、ドアを閉める。小さいながらも独立式のキッチンで良かった。
パンをトースターにかけ、熱くしたフライパンにベーコンと玉子を落とすと、いい匂いが部屋中に広がった。
熱が下がったので健康な食欲が戻ったらしく、腹が鳴り始めた。
ドアの向こうで人の気配がすると思ったら、男もこの匂いで目を覚ましたらしい。ますます犬っぽい。
「仰木くん……?」
ドアを開けると、シャツ姿で整髪も崩れてしまっているにもかかわらず朝からいい男面のヤツが些か眠そうな目を瞬かせていた。
がっしりと逞しい首の付け根まで視線を落とせば、男は寝る前にボタンを外したらしい。鎖骨のラインがきれいに覗いていて、まともに見たことのない大人の男の体というものを見せ付けられる思いだった。
平たく言えば、男の色気というやつだ。寝ぼけたみたいな顔していてこれだ。まともな朝ならそれこそ、どんなことになるやら。
まじまじと観察された男は居心地悪そうに視線をさまよわせ、
「あの……?」
僅かに首を傾げるところなんてまるで困惑した犬の仕草だ。実際には前脚を揃えてかわいく見上げてくるのではなく、いやみなくらいの長身から見下ろされているのはこっちなのだが。
「もう具合はいいんですか?食事の用意なら私がしたのに。」
「あんたは寝不足だっただろ。オレが面倒かけたから。」
「すっかり眠り込んでしまって……すみません。結局朝までお世話に。」
「世話になったのはこっちの方。いいから顔洗ってくれば?洗面所はそっち。タオルは積んである。」
「あ、どうも……。見苦しい姿で申し訳ありません。」
このいい男っぷりで何をもって見苦しいと表現しているのか知らないが、ヤツは素直に洗面所へ向かった。ますます犬属性だ。この尻に敷かれるタイプという点は母と合うかもしれない。びしびししごかれて素直に従っている姿を想像すると、何となく笑いがこみ上げてきた。
茶の間に戻ってきた男は髪をナチュラルに下ろし、ボタンをきっちりと留めていて、色気の代わりに爽やかさの大盤振る舞いだった。髪型のせいかいつもより若く見える。ヤツは確か二十六七。高校生から見れば立派な大人だが、実はまだ社会に出て数年の青年なのだ。
「とても美味しそうですね。いい匂いだ。戴きます。」
「こんなの焼いただけだ。でも素材は悪くない。」
「昨日のほうれん草も色が濃くて美味しそうでしたね。近所にこだわったお店でも?」
「店じゃない。知り合いのじいさんが分けてくれるんだ。パンは好きな店のだけど。」
何故こんな世間話をしているのだろう。
男は聞き上手で、おしゃべりな方ではない自分を饒舌にする。
クロワッサンはパリパリしていて香ばしく、目玉焼きは放し飼い鶏の玉子だけあって味が濃い。食事がうまいと話が弾む。
―――いや、誰かと食事するからうまいと感じるのか。
母と死別して以来、叔父一家と過ごすときを除いて、誰かと一緒に食事を取ることはなかった。あまりにも久しぶりの団欒が謎の教師相手とは、想像もつかない状況だったけど。
「橘先生、見かけによらず料理うまいんだな。昨日のお粥旨かった。」
「見かけってなんですか?料理は趣味の一つです。昨日のは料理のうちにも入らない類のものですが。」
「悪い。料理はきれいな彼女がいくらでもしてくれるんじゃないかって。あんたみたいなの、女の人がほっとかないだろ?」
「心外です。私は料理を人任せになんかしませんよ。海外暮らしが長いと料理にしろ洗濯にしろ嫌でも慣れます。ついでに彼女もいません。」
「候補は山といるみたいだけどな?着任式の女子の騒ぎようはすごかった。」
「と言われても、教え子とどうこうなんてなりません。」
「じゃあ年上好みなわけか?」
何でもない話のはずが、思いがけず核心に迫る質問になってしまった。
男ははっとして箸を止め、こちらを静かに見つめた。慌てたり、誤魔化そうという気配は一切なかった。
「あなたの仰りたいことはわかります。佐和子先生のことですね。」
「『先生』ってことはやっぱりお袋の教え子なんだな。でもアルバムに写ってなかった。一番古いやつから全部見たのに」
「卒業写真には写っていませんよ。四年生のときに転校したので。でも、俺は先生の最初の教え子の一人でした。」
そうかと呟いて、また箸を動かし始めた。視界に入っている男の手元も申し合わせたようにベーコンエッグの残り半分に戻っている。
母とこの男の謂れはおそらく、長い話になる。
続きは食事が終わってからだ。
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