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「気がついたんですね。良かった。」
視線を動かせばそこに、あの男が微笑んでいる。寂しさを含んだそれではなく、ただ純粋に嬉しいと言っている微笑み。
あれからどのくらい時間が経ったのかはわからないが、ずっと傍についていてくれたのだろう。額の上に感じる濡れタオルはひんやりとしていて、頻繁に取り替えてくれたのだとわかる。
それに、自分が目を開けた瞬間にここにいた。
ひとりきりで目覚める病床の寂しさを思いやってのことというよりも、ただ心配だったのだろう。だからこそこの笑顔は純粋に歓喜を浮かべているのだ。
「今……何時?」
ずっとついていてくれてありがとうと言わなければならないのに、この素っ気ない問いかけ。
それでも男は声が聞けて嬉しいというみたいな表情で即座に答えをくれる。
「ええと、九時を回りました。眠れたようでよかったです。大分楽そうだ。」
何とまあ、男は五六時間も辛抱強く面倒を看ていてくれたのか。彼女のことを除けば何の個人的関わりもない一生徒のために。
「勝手に台所をお借りしました。お粥、食べられますか?」
その上、料理まで。この美男子があろうことかお粥。しかも食べさせる相手は風邪をひいた恋人ではなく、授業中にひっくり返った男子生徒だ。
こんな光景、誰も想像しないだろう。きっと夢にも思わない。
「……やっぱりまだ気分が優れませんか?つらいでしょうが一口でもいいから食べて、薬を飲みましょう。」
黙りこくる相手に、男はまたあの寂しい笑みを浮かべて、遠慮がちに言葉を紡いだ。
犬だ。こんな美男子に失礼ではあるが、この男は確実に犬属性だ。とてもきれいな毛並みをして、茶色の瞳に賢くも寂しげな光を宿した、血統書付きの美しい犬。
気に障ったらごめんなさい。でもわたしはあなたがとても心配なんです、と病床の主人の枕元を離れない。そんな優しい犬。
「やっぱり起きたくないですか?」
それともわたしの存在が邪魔なのでしょうか。
優しい犬の瞳が声なく呟いた。
邪魔じゃない。
思わず口を開いていた。
「あの……?」
噛み合わない答えに戸惑った瞳。その瞳の中に映る自分はこんなにも幼いのか。この男にはこう見えているのか。
「いや、……起きる。」
未だ力の入らない体だが、担がれたときに比べれば随分回復していた。上半身を起こすことができるくらいには。
起きてみると、そこは茶の間だった。私室に入り込むのを躊躇った男の思考が読める。
「今、お粥を持ってきますね。」
男は自分が危なげなく上半身を起こしたのを見届けてから台所へ消えた。皿のぶつかる音が聞こえてきて、もう随分長い間こんなシチュエーションが無かったことを思い出す。
これは幸福の音だったのだ。自分のために誰かが食事の支度をしてくれている物音。
どんな因果か、今自分のために食事の支度をしてくれているのは母ではなく彼女を深く知るらしい男だが。
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