「―――仰木く」
「ここはどこですか」
 短くない沈黙を経て口を開いた相手を、みなまで言わせずに遮った。
 白い病室のパイプベッドに寝かされていたことはわかっている。本当は答えが欲しくての質問ではなくて、ただ相手に話を仕掛けられたくなかったからなのだ。
 その意図を間違いなく汲み取って、男は小さくため息をついた。ひどく疲れたような、どこか寂しい吐息と共に、彼は答える。ただ事実をそのまま言い伝えるだけの、儀礼的な『会話』に付き合って。
「ここは哲正会病院の内科病棟です。覚えていますか、あなたは授業中に高熱で倒れたんです。保健室で様子を見るには熱が高すぎたので、ここへ移動したんですよ」
 彼は、学校から徒歩五分ほどのところにある総合病院の名を告げ、手早く事情を説明した。

 この病院は部活動中などに怪我をした生徒がよくお世話になる、半ば高校のかかりつけのようになっている病院だ。これまでにも何度か、怪我や病気でここへ運ばれてゆく生徒がいたことを覚えている。そういう場所だから、医者と教師も顔見知りが多く、やあ先生、またですか、などという会話を交わすらしい。少し前に体育の授業中の捻挫でここへ世話になった友達が言っていた。

「それで、とりあえずは点滴をしてもらって熱を下げようということになって、様子をみていたんです。……気分はどうですか。少しは楽になりましたか」
 男は付き添いの人間のために用意されているスツールに腰掛けて、ほぼ同じ目の高さから話を続けた。
 初めてこんなに近くで顔を見ている。正視できなくて俯いている自分に、一方の男は痛いほどまっすぐに視線を固定しているのが感じられた。けれどそれは、決して悪意のあるものではない。
「……もう、大丈夫です」
 ひたと自分を見つめる男の目はきっと、自分の横顔に彼女の面影を探している。切ないくらいにまっすぐな、その視線。
 顔を上げるのが怖い。
 恐怖ではない。ただ、怖い。
 一向に目を合わせようとしない自分に小さく溜め息をついて、相手は待つのを諦めたらしい。
「それなら良かった。でも、点滴の残りが終わるまではここで安静にしてくださいね。すぐに先生が来るでしょうから」
 継続を望んでいなかった会話の終焉は望みの筈だったのに、なぜか……
 胸の中にある空洞に、一瞬だけ風が吹き抜けたようだった。



「これを毎食後に飲んでください。はい、それじゃあお大事に」
 点滴を最後まで終わらせて、熱が少し引いたのを見届けると、担当の医者は飲み薬を渡して解放してくれた。
 薬の包みを無造作に掴み、眩暈の残る体を危ぶみながら廊下を歩いていくと、待合室で掛けていた人物が自分に気づいて立ち上がった。
 担任の女教師ではなく、あの男だ。学校から引き取ってきたらしい自分の荷物を片手にして、急いで歩み寄ってくる。
「家まで一緒に行きます。その薬も預かりますから、こちらへ」
 素っ気無いビニール袋に包まれた薬もあれよという間に引き取られ、
「なんで」
「佐東先生は授業があるので、私が代理です。さあ、早く帰って休まないと」
 男は端正な顔に僅かに寂しさを含んだ笑みを浮かべ、大きな手を差し出した。たとえ自分にどんなに心無い態度を取られようとも、この微笑みは消えることがないのだろう。自分の顔の向こうに遠く浮かぶ、『彼女』を見つめながら。

 『彼女』のために差し出されたその手に、自分の手を伸ばすことはできない。

 男の脇をすり抜けようと足を踏み出した瞬間、足元が崩れた。

「仰木くん!」

 切迫した男の声を、薄いヴェールを透かしたように遠く歪んで聞いた。



 おぼろげな意識の中で、気がついたのは広い背に胸を預け、ゆっくりと揺られていることだった。
 これは先ほどの世界史担当の畔先生とは違う。
 がっしりとよく張った肩と、堅く引き締まった筋肉の感触が頬の下に感じられる。
 膝裏を抱えている腕も同じく鋼のようで、けれど一歩一歩を踏み出す足はとても穏やかで慎重だった。
 背中の荷物を揺らすまいと細心の注意を払っているのだろう。
 この男はどうしようもなくいい人間なのだ。自分にどれほどつらく対応されようが、ろくに口も聞いてもらえなかろうが、壊れ物の如く大事に扱おうとする。
 一教師がどうして一生徒にここまで優しくするのか。
 それはおそらく、この男自身の性質なのだろう。
 ―――そしておそらくは、『彼女』のことも絡んでいる。

 男は近くの駐車場に停めてあった車に自分を乗せ、走り出した。


08.04.23

対決っていうより、ぴるぴる震えながら虚勢を張る仔猫と、どんなに邪険にされても手を差し伸べることを止めようとしない大きな茶色い犬の巻。でした。


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(image by 新-arata- / midi by Blue Piano Man