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「……仰木?仰木!」
急に名前を呼ばれて、反応が遅れた。この声は世界史担当の畔先生だ。
ぼんやりしているのを見咎められたのだろうかと思って顔を教卓の方へ戻そうとしたが、
「おい、仰木 !? どうしたんだ!動けないのか !? 」
教科書を片手に机の間を歩きながら授業をしていた畔先生がここへたどり着く方が早かった。
体に力が入らない。
そのことに気づくのと、その理由に気づくのとは、ほとんど同時だった。
自分は急に高熱を発したに違いない。昔から、自分の熱の出し方はこうだ。少し前まで何ともなかったのに急に高熱になって身動きができなくなる。そういえば二三日前から少し寒気があった。
「仰木!すごい熱だぞ。どうして黙っていたんだ」
肩を支えるように手を触れた先生が目を見開く。慌てて背中を支えてくれながら声を掛け、保健室へ移動しようと言ってくる。
「大丈夫か、歩けるか?」
「すいません……ちょっと立てません」
新学期早々教師におんぶされて保健室送りだなんて冗談じゃないが、どう足掻いても力が出ない。
諦めてそう告げると、畔先生はよしと言って背を向けた。
「おぶされ。おい、井村と垣森、手伝ってやれ」
前後の席の男子生徒に手伝ってもらい、先生の背中に寄りかかる。そう重いつもりはないけれど割合背が高い方に属している自分をおんぶするのは、かなり大変だと思うのだが、先生はよっこらしょとかけ声を掛けて立ち上がり、案外軽そうに歩き出した。実は隠れ山男だったりするのだろうか、と高熱に浮かされた頭の隅で考えながら、目を閉じた。
「……やはり……へ」
「そうですね。それでは……が……」
「よろしく……いします」
薄いヴェールを何枚も隔てたところで、誰かが何かを会話している。
熱い。耳が聴こえない。熱い。体が動かない。
あつい……
「仰木くん」
誰かが話しかけている。はい、と返事をしようとして、叶わなかった。舌すらうまく動かない。
どうにかこうにか瞼を開けても、やはりもやがかかったようにしか視界が得られず、自分に向かって話しかけているのが誰であるのかはわからなかった。
ただわかるのは、その人の話す言葉がとても心地よいこと。ゆるやかな抑揚と、ゆっくりのテンポが、熱で混乱した頭を少しずつ鎮めてゆく。
「これから哲正会病院へ行きますからね。ちょっとつらいかもしれないけれど、頑張って」
その人は自分にそう言うと、額に手のひらを当てて、落ち着かせようとするように何度か撫でてくれた。大きくて、節の張った手のように思えた。保健室の先生ではない、男性だ。
撫でられる心地よさが体の強張りを解いて、ふっと全身から力が抜けた。瞼も下ろし、深く眠りの底へと沈んでゆく。
「じゃあ行きましょうか」
声が遠くなる。そして体の感覚も。
「それでは、な……先生、お願い……ま……」
「はい」
誰かの大きな背中におぶわれて、その背中がゆっくりと立ち上がり、そして歩みと共に揺られてゆくのを、消えゆく意識の中でおぼろげに記憶したのが最後だった。
誰かが手を握ってくれている。
熱さにうめくと、元気づけるようにぎゅっと手を握ってくれる。
そう、ずっと昔……母親がしてくれたように。
何度も、……何度も……
握った手の感触が、自分を安心させてくれた。
夢と現の狭間を彷徨う自分を、その手が幾度となく引き戻してくれた。
大丈夫……と、勇気づけてくれた声があった。
ここにいるから……もう少し眠りなさい、と。
その声に安心して、深い深い眠りに身を任せた。
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