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今日は本当に驚いた、と、自分よりも後ろの方に並んでいる昔馴染みへちらりと思いを馳せながら、目では講堂の舞台上で入学式に引き続いて離任式が進行してゆくのをぼんやりと追う。
新入生が離任式と着任式に出席する理由は一体どこにあるのだろうかと思いながら壇上を見ていると、
「それでは次は新しく着任した先生方、前へどうぞ」
と司会進行役の教頭がマイクに向かって言うのが聞こえ、講堂の中央寄りに集められていた生徒たちの脇、講堂の壁際に並んでいた教諭陣の中から、数人が立ち上がった。
離任する人間に関わりはないし、新しく着任した人間であろうが元々いた人間であろうが、新入生の自分にとっては同じことだ。出入りをいちいち目で追ったって仕方がないのでただぼんやりと壇上だけを見ていると―――ふいに、さあっと血の気の引く音がした。
壇上に上がった数人の新任教師の中に、見覚えのある長身を見つけたからだ。
あの日。桜の下で泣いていた男。母を知っているらしい男。
自分を母の名で呼び続けたあの男が、壇上にいた。
着任式の間中、身動きもままならず硬直したまま、目を逸らすことすらできずに、ただ、ある一人の着任者を見つめていた。
心臓が恐ろしいほど激しく打ち鳴らされている。それは頭の中に鳴り響いている警鐘と同じく。
今は亡き母親のことを知っているらしい、見知らぬ若い男。
母がかつて一度だけすべてを捨ててもいいと思ったと語ったあの桜の下、この男は尋常でない様子で泣いていた。
あの涙はただひたすらな悲しみのそれだった。おそらくは、もう二度と言葉を交わすことのできない相手を思っての涙。よほど近しい者を亡くしたのか、もしくは恋人を亡くしたのか、それとも、何かもっと別の大切な存在を思っての涙だったのだろうか。
その男は、自分を見て、母の名を呼んだ。否、呼んだというよりも、叫んだというべきだろう。驚愕に目を見開いて、母によく似た自分を見つめたあの表情が―――忘れられない。
彼の思う相手は、あの涙のわけは、ほぼ間違いなく、自分の母親に関係しているのだ。
壇上で着任の挨拶をしているその男は、大学を卒業した後、一年間教育センターに勤め、その後三年間を海外の日本人学校で教諭として過ごしたのちに、帰国してこの学校へ着任したのだと自らの経歴を語った。
大学を留年せずに卒業しているとすれば、彼は今年で二十七歳。自分の母親は生きていれば四十二歳だから、歳の差は十五歳だ。ということは、年齢から推せば、彼は母のまだ若い頃の教え子である可能性は高い。もしかしたらあの小学校の出身で、桜の木にも思い入れがあったのかもしれない。
―――というのがごく当然の推測だが、自分にはなぜだか、彼と母との関係がそんな簡単なものではないという不思議な推測があった。
その推測は、壇上での挨拶を終えた若いその男の視線が講堂にひしめく生徒たちをぐるりと見渡して自分と目があった瞬間に、確信に変わった。
彼は生徒の中にこの顔を見つけた瞬間、明らかに動揺を見せたのだ。それはほんの一瞬のことだったけれど。確かに視線がかち合っていた。彼は自分に気づいたのだ。
数百人の生徒と数十人の教諭が集まった広い講堂に、その瞬間だけは、壇上の彼と生徒席の自分との二人きりだった。
桜の下と同じ、たった二人きりだった。
―――否、自分を通り越して後ろに彼の視線は今は亡き母を見ている……
その新任教師はすぐに動揺を消して一同へ軽く頭を下げ、マイクの前から退くと、そのあとは何事もなかったかのように元通りの立ち姿に戻っていた。
着任式はその後二人の教諭の挨拶を経て終了し、長かった式典はようやく閉式のときを迎えた。
「一同、起立」
司会進行役の教頭が最後の締めくくりとなる一同の礼に号令を発し、
「礼」
ざっ、と講堂中の人間が礼を取ったとき、自分の高校生活はスタートを切ったのだった。謎の男という一点の曇りを前途に残して。
幼なじみとの再会、そして、母を知る男との二度目の邂逅。
驚くべきことが一つだけにとどまらず、二つも重なった一日だった。
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