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第一章 入学式
あの桜の下で、母を知る男と出会った日から、三日が過ぎて、今日は高校の入学式だ。
母と暮らした家を出たくなくて、彼女が死んだとき自分を引き取ろうと言ってくれた祖父母を断ってここに住み続け、高校も家から一番近い私立を選んだ。小学校にも上がらない幼いときに父親を亡くし、それ以来母子二人で暮らしてきたこの大切な場所を、決して離れたくなかったのだ。彼女と歩いた道を、共に見上げた桜の木を、離れたくなかった。
彼女が離れたがらなかったこの土地だから、自分も離れようとは思わない。
これまでも、そしてこれからも、たぶん。
入学式には父兄と連れ立って登校する生徒が多い中、自分は一人きりだ。それは中学の入学式も同じで、母親が教師であるため仕方のないことだった。
けれど、今回は同じ一人でも全く状況が違う。中学の入学式とは違って、式を終えて帰宅しても誰も迎えてはくれないのだ。この先、大学に進学したとしても、その日を祝ってくれる人はいない。
自分はこれから先、ずっとこうして一人で歩き続けるのだろう。たくさんの親子連れの中にぽつんと一人で混じって、暖かい日だというのにマフラーを口元まで覆って。
ただひたすら合格と入学を喜んでいる様子の母娘や、早くもこれからの塾通いについてまくしたてている教育熱心そうな母親にうんざりした顔でついてゆく男子生徒の間をすり抜けるように早足で歩いて、まだ馴染めない教室へ滑り込んだ―――。
教室はひどく静かだった。見知らぬもの同士が一つ所に押し込められているのだから当然と言えば当然のことだが、誰も彼もが好き勝手に喋っているあの中学の喧騒を思い出すと、改めて自分の周りの環境が変わったことを思い出す。
今日からはこの場所が自分のいるべき所になるのだ。見知らぬ同級生たちと言葉を交わし、それなりに友達らしい関係を築いて、部活動や勉強に時を費やして、そして三年後にはいなくなる。そんな場所。
周りを見渡してみると、初めての場所に初めての面子で集まった生徒たちはそれぞれが思い思いに式までの時間をつぶしている。文庫本を広げて読みふけっているらしい生徒もいれば、誰か口をきく相手はいないだろうかと視線を走らせている者もいる。
いずれの顔を見ても、どこかしら上品な雰囲気を帯びているというか、中学の時には珍しくもなかった馬鹿っぽさが見られない人間ばかりだ。学力試験を経て入学した人間が集まっているのだから、それなりの出来の者以上しかいないわけで、当然ではあるのだが。
特に頭が良いというわけでもない自分は、家の近くにあるこの高校に行きたいが為に懸命に勉強して、どうにか引っかかったという状況だから、この場にいる人間たちの中ではどちらかといえば異端に属するのだろう。
自分にも友達はできるのだろうか、と少し寂しく思ったとき、ふいに誰かが声を掛けてきた。
「……もしかして、高耶?」
思いもよらない台詞に驚いて、目の前に立った相手を見上げると、そこにいたのは、天然であるらしい茶髪に大きなアーモンド型の瞳が印象的な、小柄な男子生徒だった。
勢いのままに顔を上げて、その大きな瞳と目が合うと、相手はぱっと顔を明るくして、笑顔になった。
「やっぱり高耶だ。高耶は俺のこと覚えてないか?保育所のときから小学校の二年まで近所に住んでた、ユズル。成田、譲なんだけど」
なりた、ゆずる。
頭の中で反芻すると共に、思い出のずっと奥底にしまいこまれていた記憶がみるみるうちに再構成されてゆく。
働く母親は幼い息子を保育所に預けて教職に復帰した。その保育所で、物心つく前からずっと兄弟のようにころころじゃれ合いながら育った親友は……そう、こんな茶色っぽい髪に、大きな瞳だった。
ぽてぽての乳児の顔から、幼児、小学校の一年、二年と、記憶の中にある彼の顔が急速に成長してゆく。
けれど―――記憶の再生はそこまで。彼は小学二年のときに父親の転勤のために引っ越してしまったから。
「ゆずる……?ほんとに、おまえなのか?」
半信半疑で問いかけると、目の前にいる男子生徒は、見覚えのあるアーモンド型の瞳と、人好きのする柔和な笑顔で、自分に頷いてみせた。
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