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少なく見積もっても二十代の半ばは過ぎている筈のその男は、嗚咽こそもらさなかったが、滴り落ちるほど涙を流して泣いていた。
号泣と言ってよいほどのその涙は一体なぜなのだろう。子どもでもあるまいし、なぜ大の男がこれほどまでに悲しみを溢れさせているのだろう。大切な者を喪ったのか。それとも。
見てはならぬものを見たと高耶の足がその場に凍りついたのは当然のことだろう。
進むことも引き返すこともできずにただ瞬きも忘れて眼前の光景を見つめる高耶は、その光景に或る一つの言葉を思い出していた。
数年前、自分の手を引いてこの桜の下へ連れてきてくれた母の、独り言めいた呟きを。
一度だけ……何もかも捨ててもいいと思ったことがあったわ―――
その時の母の瞳はどこか遠くを見ているようで、自分はそのまま母がどこかへ行ってしまうのではないかと錯覚した。事故で早くに夫と死別し、それ以来女手一つで自分を育て上げた彼女が、そのときだけは母ではなく一人の女性の瞳をしていたから。
小学校の教師として子どもたちと取っ組み合いながら暮らしてきたその人が、豪快に笑う陽気な母親ではなく、昔を懐かしむようなしめやかさを含んだ声で呟いた。
彼女はそれ以上は何も語らなかったが、そのときの記憶はこうして今でも残っている。
母親にも一人の女性としての過去があるのだということを、初めて知った日のことだから。
彼女が自分を置いて逝ってしまった後でも、こうしてここに来てしまうのは、やはり一番印象が強い出来事だったからなのだろう。
その場所に―――今は一人の男が泣いている。
不思議な符合を感じて、その場に動きを止めたのだった。
やがて、ようやく顔から手を離した男が、視界の隅にいる人影を見つけて振り向いた。
瞬間、その顔が驚愕に歪む。
「
さ わ佐和
……!」
男の口から迸った名前が、高耶を凍りつかせる。
佐和子。母の名だ。
母似の自分を見てその名を呼んだあの男は、生前の母を知っている―――!
男が引かれるように自分へ向かって歩いてくるのを見た瞬間、高耶は身を翻していた。
背中に尚も母の名を呼ぶ声が聞こえていたが、耳を塞いで一目散にその場を逃げ出す。走って走って、ようやく自宅に転がり込んだときには、心臓が悲鳴を上げていた。
「誰なんだよ……なんなんだよ……」
思い出すのは、自分に向かって母の名を叫んだ男の、ハッと目を引く端整な顔立ち。悲痛な叫び声。
二十代の後半とみえる男は、母にとって一体何なのだろう。
母より優に一回りは若いその男。
「……まさか」
乾ききった唇からこぼれた声は、酷く掠れていた―――
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