第八章 幸福
目覚めると、ヤツはもういなかった。いつの間に布団を抜け出したものか、寝具に自分のほかには熱は残っていなかった。
ゆうべあの手に髪を撫でられながら眠ったことは覚えている。だが、その後は一度も目を覚まさなかったから、ヤツがちゃんと一緒に寝たのかはわからない。自分を寝かし付けてから居間のソファあたりへ避難してしまった可能性もある。少なくとも寝込みを襲う真似はしたくなかったようだ。もしくはうっかり襲われても困るということかもしれない。ヤツはこの年齢差を気にしているから。
確かに教師と生徒の間柄で同居して、しかも恋人関係だなんて、これが他人の話ならオレだって眉をひそめる。でも、オレは年上の男に誑かされてこんなことになったわけじゃない。
母を慕う昔の教え子と出会って、その思い出を共有したいから迎え入れた。一緒に暮らして、手離せなくなった。
直江の優しさも弱さも、その脆さも強さも、全部が好きで、守ってやりたくて、自分を包み込む温もりに癒されて、だから、ずっと一緒にいたい。
それがいけないことなのだろうか。
母を送って二年あまり、欲しいものなんて何一つなかったオレが見つけた手放したくないもの。直江のほかには何もいらない。それがいけないことなのだろうか。
直江のつける香水の匂いに満ちた部屋で、掛け布団を抱いてごろごろ転がって香りを堪能していると、コンコンとノックする音がして引き戸式のドアが開いた。
半分ほど開かれた隙間からひょっこりと顔を覗かせたのは、妙に似合っているエプロン姿の同居人だ。朝食をこしらえてくれたのだろう。
「おはようございます。高耶さん。良く眠っていたので起こすのが忍びなくて、先に朝食を作りました。食べませんか?」
ヤツはオレが布団を抱いてごろごろしているのを見て少し目を見張ったが、すぐにいつもの微笑みを浮かべて中に入ってきた。
「ん」
寝転がったまま両手を上に伸ばして腕を催促すると、男は軽く首を傾げてから意図を察して微笑む。指を絡めてぐいっと引っ張られ、半身を起こした。
「どうしたんですか?なんだか子どもみたいですよ。昨日から」
「兄弟から始めるんだろ?お兄ちゃん」
昨晩の相手の言葉を引用して少年が笑う。
「これじゃあお父さんですよ?」
相手はくすくすと笑いながら少年の頭をポンと叩いて、その髪をすいと撫でた。
「オヤジかよ。じゃあ抱っこ」
相手の言葉尻を捉えてにやりとした少年が、両腕を伸ばして催促すると、相手は笑いが止められない様子で俯いた。
暫く身を二つに折って息を整えた男は、まだ笑いの残る顔で屈み込み、腕を少年の脇の下に差し入れてひょいと抱き上げた。
馬鹿力だ。高校生男子を幼児でも持ち上げるみたいに軽々と抱き上げるなんて。
「高耶さんは軽いですね。もうちょっと肉を付けましょうね」
ヤツは背中と尻を支えて自分の胸に体重を預けさせながら、そんな風に言った。
「オレが軽いんじゃなくて直江が馬鹿力なだけだろ」
「いえ、あなたは軽いですよ。ほら、もう着いた」
直江はすたすた歩き、すぐに食卓に辿り着いた。椅子に下ろされ渋々手を離すと、代わりのようにくしゃ、と髪を撫でられる。心地いい。
食卓には、バターロールに卵とレタスを挟んだロールサンドと、バナナの輪切りを散らしたプレーンヨーグルト、それにつぶつぶが見え隠れする濃厚コーンスープが並んでいる。
「うまそう」
思わず腹が鳴って、男は嬉しそうに微笑んだ。
「冷めないうちにどうぞ召し上がれ」
くしゃ、と最後にもう一度ひと撫でして、大きな手のひらが離れていった。
少し寂しく思ったのもつかの間、向かいに掛けて肘を突いたヤツは、茶色い瞳をきらきらさせてこちらを見つめてくる。きれいなたまご色のスープを掬ったスプーンが口に入るのを凝視するさまは、まるでボールを拾って駆け戻ってきた大型犬そのものだ。
どうですか、よくできましたか、ねえ褒めてください。
そんなわくわくした犬そのもの。
「うまい。最高」
舌の上でとろけるような甘くて香り高いスープはまさに最高の味だった。
素直に感想を口にすると、直江はとても嬉しそうに笑って自分も食事を始めた。
「これ、生のコーンで作った?」
「はい。缶詰めは甘すぎますし、香りが飛んでしまっていますからね」
「道理で味が違うな。直江ほんとに意外なくらい料理うまいよな」
「三年も海外暮らしすればこうなりますよ」
「みんながみんなそうはならないだろ……。普通外食に走るって。で太る」
言いながら、外食のし過ぎでぷっくりした直江を思い浮かべてみようとしたが、全く想像がつかなかった。直江のことだから、きっと愛嬌のあるおデブちゃんになるのだろうけど。
「幸い俺は料理が好きだし、食材にも不自由はありませんでしたからね。それに学校には立派なプールがあって、トレーニングの機会にも事欠きませんでした」
「放課後とかに泳いでたのか?一人で?」
立派なプールを独り占めして健康的に肌を灼く男の姿を思い浮かべて、朝なのにくらりとしてしまった。
「いえ、体育教諭や校長と一緒に。校長先生が自称『スポーツ万能』で、生徒たちに混じって水泳大会に出場するような人だったんですよ。さすがにいい体をしていました」
なんだかしみじみとした様子で頷くのを、少年は苦いものを噛んだような表情で見て、
「いい体って……直江にはかなわないだろ」
「背丈は俺の方がありましたけど、なかなかの筋肉でしたよ。背広姿ではそうとわかりにくいですが、脱いだらすごいってやつですね」
「だからそれは直江だろ……」
痛み出したこめかみを拳でぐりぐり押しながら溜め息をつく。
「お褒めいただき。といってもまだ見せたことはないと思いますが?」
「そんなの触ればわかる」
抱っこだのおんぶだのしてべたべたくっついていれば見なくてもわかる。
「そうですか?今度は泳げる海に行きましょうね」
何とも言えない気分を味わうオレをよそに、ヤツはのほほんとスープを口に運んでいる。犬は自分のスタイルになど頓着はないのだ。顔と同じで。
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